その日志悠は久しぶりの休暇をもらい、天気の良い城下で
一人のんびりと買い物を楽しんでいた。
「あぁ志悠様、こんにちわ!お買い物ですかい?」
「志悠様!こないだの橋の件どうも!助かりましたよ!」
「おぉ志悠様じゃ・・・ありがたやありがたや・・・」
しかしすれ違う民ほとんどが、かしこまって挨拶をしていってくれるのには
当の本人も少し戸惑っていた。
視察に来た時は他に付き人もいるし、仕事なのでうまく受け答えをするのだが
休暇で一人の時にこう大勢にかしこまられていては、どうにも居心地が悪い。
しかも今はちょうど収穫期なので、時々豊作だったとかよい物ができましたなどと言っては
芋や野菜を分けてくれるのにはさすがの志悠も困り果てていた。
無下に断るわけにもいかず、かといって手の空いた時に荷物持ちを買って出る徐晃も
まさか休暇にまでつきあわせるわけにもいかないので連れてきてはいない。
両手いっぱいに収穫物をいただき、少々げんなりしながら自分の屋敷への道を歩いていると
ふいに横から聞いた事のある声がして、片手の荷物がなくなった。
「お持ちしましょう」
「・・え?」
驚いて横を見ると、見覚えのある青年が手から荷物を手際よく取っていく。
以前見た時の鎧はさすがに着用していないが、細いがしっかりした体格に
長い髪を後ろで一つにした風貌には見覚えがあった。
「あ・・!あなたこんな所で・・・!どうしたのですか一体・・・?!」
声を上げそうになってあわてて小声になる志悠に、蜀の五虎将の一人趙雲子龍は
悪びれる様子もなくあっさりこう答えた。
「ただ待っているだけではお会いできそうもないので、お会いしに参りました」
「・・・一人で・・・ですか?」
「もちろん」
言うまでもないがここは魏のど真ん中の中心都市だ。
しかも趙雲は見たところ武装はしていないし、服を粗末にしただけで変装もしていない。
一見すればただの旅の青年ですむかもしれないが、知っている人間に見つかれば
素性など一発でばれてしまうだろう。
一人で来たと言うのも嘘ではないようだが・・・しかし・・
敵対国のど真ん中に単身乗り込んでくるのは、はたして肝がすわっているのかそれとも・・・・。
「・・・・馬鹿ですかあなたは」
「ははは、そうかもしれませんね」
さわやかに笑ってのける趙雲に志悠は頭をかかえた。
どうして私の周りにはこんな能天気な人が集まってくるのでしょうね・・・。
「・・・・ともかく私の屋敷へ来なさい。あなたの顔を知る者に出くわしては大変です」
「かたじけない」
などと頭を下げつつも趙雲は妙に嬉しそうだったりする。
結局ほとんどの荷物を取られ、志悠は趙雲を従えてしばらく城下を歩いていたのだが
志悠と精悍な青年というもの珍しさにちらほらと民が集まり出してきた。
「おや志悠様、新しいお付の方ですかい?」
「・・・いえ、少し前に知り合った方です」
「ははは、徐晃様ともお似合いですが、その殿方ともなかなかお似合いですな」
「っ・・!ですからそうゆう関係ではありません!」
「はは、私は別にそう取ってもらってもかまいま・・・」
ぎゅむ。
何か言いかけた趙雲の足を志悠は黙ってふんづける。
「・・・本当に先日知り合ったばかりなのです。あまり吹聴しないでくださいね」
「わかってますって。俺たちゃ志悠様の味方ですからね!」
「何か悪い噂が立ったら原因を突き止めて真っ先にお知らせしますぜ」
「ありがとう。お願いしますね」
「いやいや、志悠様のおやくに立てるんなら喜んで!」
「・・・皆さん随分と志悠様を尊敬されているのですね」
忘れられそうになっていた趙雲の言葉に、近くにいた初老の男がなぜか自慢げに話し始める。
「そりゃあ志悠様はわしらにとっちゃ神様みてえなもんだからな。
困ったことはすぐに相談にのって下さるし、無駄な税は一切お取りにならねえ。
普通の高官連中は上からしかわしらを見ねえが、志悠様はわしらと同じ目線にたって
行政をうまいことはこんでくださる。
もちろんそういった行政に反対する奴も上には五万といるが、志悠様はそんな連中から
賄賂や金を受け取ったりした事は一度たりともねえんだ」
「よくご存知ですね」
「弱きに優しく強きに厳しい志悠様だからな。志悠様に敵対したやつなんざ
その辺の安酒場で一晩ぐちったあげく、夜中に馬車に乗って夜逃げするのが定番なんだよ」
「・・・そうなのですか?」
「・・・さあ、存じませんけれど」
あさっての方向を見てはぐらかしたと言う事は、間違ってはいないらしい。
「とにかくあんたも志悠様のどんな知り合いか知らんが、志悠様を大事にしてくれよ」
「おいおい、それじゃ志悠様が嫁に行くみたいな話じゃないか」
あたりから笑いが巻き起こり、趙雲がまた何か言いそうになるが
志悠に無言でにらまれて苦笑するだけにとどまった。
「・・・では皆様、私達は屋敷に戻りますのでこれで。
次の視察のさいに何かありましたらご報告ください」
「もちろんでさぁ。収穫祭もよけりゃ参加してくださいよ」
「ありがとう。そうさせてもらいますね」
老若男女、多くの民に見送られながら二人はその場を後にした。
志悠の屋敷へ向かう道すがら、志悠は隣を歩いていた趙雲が何か嬉しそうに
こちらを見ているのに気がつく。
「・・・どうかしましたか?」
「想像以上に信頼されているので驚きました」
「そうですか」
「それに・・・先程私を見てなぜここにいるのかと言わず、どうしたのかと聞いてくださいましたね」
「・・・・・」
「嬉しかったですよ」
「・・・・そう」
小さな事に感心する趙雲に志悠は静かなあいづちを打っただけだった。
その横顔からは何もうかがい知る事はできなかったが、それでも趙雲は
嬉しそうな表情を変えなかった。
「志悠様はお一人でお住まいですか?」
「・・・そうですね。使用人は何人かいますが、それをのぞけば一人です。
・・・あぁ、あそこに見えるのがそうです」
着いた先には屋敷、というよりもちょっとした城のような豪邸があった。
門も大きく塀も高いが、門はなぜか開いたままになっている。
「さすがにご身分が高いだけあって・・大きなお屋敷ですね」
「私は小さくてかまわないと申し上げたのに、殿がここにしろと押し付けてくださいました。
まるで大きな監獄です。掃除もたいへんですし・・・」
愚痴をこぼしながら中に入ると、歳も性別もばらばらな使用人が何人か出迎えてくれる。
志悠は趙雲の事を知人だとだけ説明するが、使用人たちはそれ以上なにも疑わず
こころよく二人を客間に通してくれた。
まさか家主自ら連れてきたのが敵国の武将だとは夢にも思わないのだろう。
「・・・それにしても五虎将たる者が、一体何を考えておいでなのです?
単身での潜入がどれほど危険なものか、わかっておいででしょうに・・」
お茶を入れながら少しだけあきれてそう言う志悠に
趙雲は心配してくれているのだと心の中で安堵した。
「もちろん重々承知の上です。本来ここへは別の者が書簡のみを届けるはずだったのですが・・・」
「書簡?」
「はい。街亭での戦の後、私と姜維が殿と丞相にあなたの事をお話した所、ぜひこれをと」
そう言って趙雲は1通の書簡を差し出す。
封を開けて読んで見ると、長くはないが達筆な文字が並んでいて
最後にはきちんと諸葛亮孔明と名前も捺印もしっかりしてあった。
「・・・確かにご本人の物のようですけれど・・・しかしどうしてこれをあなたが持参する必要が?」
「もちろん私があなたにお会いするために、丞相を口説き落とした(わがまま言った)からですよ」
多少の良識はあるものの、妙な所で強引なのはどこかの誰かさんそっくり
と、志悠は小さなため息を吐き出した。
「ひょっとしてご迷惑・・・でしたか?」
「・・・・いえ・・・それはかまわないのですけれど・・・」
「では返答をお聞かせ願えませんか?可能であれば今すぐにでも蜀へお送りします」
「ちょ・・ちょっとお待ちなさい。何もそこまで急がなくとも・・・」
「いいえ、急ぐのです」
冗談のかけらもない趙雲の真剣な表情に、志悠はそれが何を意味するかすぐに気がつく。
「・・・戦が近いのですね」
趙雲はその問いには答えず表情を曇らせた。
「・・・以前あなたにも指摘されましたが、戦に私情をはさむ事は軍をまとめる将として
恥ずべき事だと思います。しかし私は・・・あなたの治める城や町、平和に暮らす民らに
戦火を広げる事は避けたい。・・・いえ、正確には・・・あなたを戦に巻き込みたくないのです」
「確かにそれは私情ですね」
「・・・はい。私個人の私情です」
「・・・そうですか・・・」
志悠は少し黙り込み、奥から墨と筆を持ってきて何かしたためはじめた。
「・・・・趙雲将軍」
「・・・はい」
「私は戦事に関わる事はありませんが、皆様が留守の間、戦をしない変わりに
国を守る義務を持ち合わせているのです」
「・・え?」
「何も心配はいりません。私はあなた方から城や民を守るすべを心得ています」
「しかし・・!」
「・・・あまり彼女を甘く見ぬ事だな」
趙雲が反論しようとした時、ふいに戸口から部屋にいた二人とは別の声がやって来る。
そこにはいつからいたのか魏の五将と呼ばれる張遼がいつもの鎧姿に
いくつかの書簡をかかえて戸口にたたずんでいた。
「!・・・」
戦場で何度か槍を交えた事のある趙雲は素早く反応して立ち上がるが
志悠はそれを静かに制止する。
「大丈夫。私の屋敷での戦闘行為は禁止していますから」
「・・・え?」
「残念ながらここは絶対領域なのでな」
そう言って張遼は目の前の敵将をさして気にする様子もなく、志悠と趙雲の間に腰をおろす。
「どこから聞いていましたの?」
「戦が近いがどうとかいうあたり・・・からか」
「・・・ま、要点の所から聞いていたの?嫌な人」
「盗み聞きするつもりはなかったんだがな」
「・・・どうでしょうね」
などと会話している二人を趙雲は何か信じられないものを見るような気で見ていた。
かたや司馬懿も恐れる魏の有力内政治官、かたや泣く子も黙ると言われる魏の五将。
それが敵の将軍を目の前にしてごく普通にふるまっているのだ。
こうも平然とされていては逆に何かありそうで不気味にさえ思えてくる。
「ところでどのような御用ですの?あなたがわざわざ私の屋敷に来るなんて」
「殿から夕食の誘いを言付かって来た。それと・・・これを司馬懿殿から」
そう言って差し出されたのは一抱えほどある大小の書簡。
「・・・相変わらずですこと。そろそろ直接手渡しにくればよろしいのに」
「それともう一つ、国内に蜀の間者が侵入したとの情報もあったのでな」
一瞬その場の空気がピンと糸をはったように張り詰める。
しかし志悠はまったく動じる様子もなく笑って張遼にお茶を差し出した。
「まぁ、物騒ですね。警備の兵は昼寝でもしていらしたのかしら?」
「何分我が領土が広いからな。一人や二人の侵入者を見落とすのは仕方あるまい」
興味なさそうに出されたお茶を飲み、張遼はそのまま立ち上がって踵を返す。
「では私はこれで。まだ仕事があるのでな」
「そう、ご苦労様」
などと短いやりとりの後、張遼はごく自然にその場から姿を消した。
拍子抜けしたのは結局一言も口を開けなかった趙雲だ。
敵として戦場で何度か槍を交えた事のある者を、まるでそこにはいなかったように
何事もなく立ち去ってしまったのだから。
「どうなさいました?そんな顔をして」
「・・・あ・・・その・・・あの者、私の顔を知っているはずなのに
なのに・・・私が目に入っていないような様子だったので・・・」
「私に気を使ってくれたのですよ」
「・・・え?」
書き終わった書に封をしながら志悠が答える。
「あなたはここにいなかった、という事にしてくれたのですよ。
いくら身分が優遇されているからとはいえ、敵の者をかくまったとなれば問題になりますからね」
そう言って志悠は完成した書簡を二つ、趙雲に差し出した。
「馬を用意させます。捜索がおよぶ前にお帰りなさい」
「志悠様・・!」
詰め寄る趙雲に志悠はあくまで静かな態度を崩さず
いつか見せた少し悲しげな微笑をうかべた。
「おっしゃりたい事はあなたにお会いした時より理解しているつもりです。
けれど以前にもお聞かせした通り、私にはここですべき役目があります。
それはあなたとて同じではないのですか?」
「・・・・・」
趙雲はそれ以上何も言えない。
もう一度会って話をすれば説得できるものだと思って、来てはみたものの
考えてみれば志悠はああも民衆に信頼されている。
それを捨てて他国へ降るようなら、元から信頼などされはしないのだ。
「そう落胆なさらずに将軍。先程張遼の言った通り、私は防衛に関しては自信があります。
あなたはあなたの君主と国のために自らの信義をつらぬきなさい。
私は私なりにあなた方を止めてみせます。魏の内政治一品官、志悠零の名にかけてね」
・・・・甘かった。
この人は私一人ごときの言葉で心動く人ではない。
まっすぐに、しかし静かに語る志悠を見て趙雲は自分の考えが軽率だったことを
その時やっと思い知った。
だが次に口を開いた志悠から趙雲の思いもしない意外な言葉が出てくる。
「あ、それとお預かりした書簡の内容ですが
あなたの思うほど重要なものではありませんでしたよ」
「・・・は?」
「魏に是非に会いたい人がいる。と妙に落ち着きのなくなったしょうのない者がいて
私では解決できないので名案のほどをよろしくお願いします。
・・・と、かいつまんで言うとそんな事が書いてありましたの」
「丞相が・・・そんな事を?」
「いわゆるお見通しというやつですね」
「・・・わ・・私は・・・てっきりあなたを蜀にお招きする内容の文だとばかり・・・」
「あの方は私よりも賢明な方ですもの。私がどう転んでも蜀に降らない事など
重々承知しているはずです。それにあなたに内容をあかさずこれを届けさせたのは
私に会って直接無駄だと言う事を知りなさい、と戒める意味もかねていたのでしょう」
「・・・妙にあっさり承諾して下さったと思えばそんな事を・・・!」
などとうなりながらあさっての方向へ視線をやり、ここにはいない諸葛亮に恨みの拳を作る趙雲。
一途な事は悪い事ではないのだけれど、融通がきかないのも困りものですね。
志悠は心の中で小さなため息をつきながら、卓上に置きっぱなしになっていた
書簡の一つを手に取って差し出した。
「ここを出る際にこちらの小さい方を門番にお見せなさい。
よほど私に不信感のある者でなければ通してくれますから」
「・・・・志悠様・・・・」
「馬はここを出て右側の渡り廊下をぬけた先にあります。私に許可をもらったと言えばすぐに・・」
「志悠様・・・!!」
苦しさと切なさの入り混じった趙雲の声に、志悠はほんの少しさびしそうに薄く笑った。
「戦は人を狂わせます。私はその狂気の渦から戦えない多くの者たちを守るために
仏にも鬼にもならねばなりません」
「・・・・・・」
「お察し下さいませ、趙雲将軍」
風の音だけが通りすぎていく落ち着いた客間に、長い長い沈黙が流れる。
そして趙雲は志悠の差し出した書簡をゆっくり受け取り、しっかしりた動作で頭を下げた。
「・・・・重ね重ね・・・申し訳ありませんでした」
「いいえ、私あなたのそうゆうまっすぐな所、嫌いではありませんよ」
そのとたん趙雲はブンと風を起こせそうな勢いで顔を起こした。
「今・・・!なんと!?」
「?・・・嫌いではありません・・と」
「・・・・・そ・・・そうですか!はは!嫌われていませんか!」
落ち込んでいたいたと思えば急に元気を取り戻した趙雲に志悠は首をかしげる。
「・・・私がいつあなたを嫌いました?」
「え・・いえ!言っておりませんが・・その・・
私も少々強引に事を進めようとした所もありましたので・・・」
「あぁ、そうなのですか。しかし心配なさらずとも私共の中に約一名
あなたの十倍以上強引な方がおりますもの。大した事ではありませんわ」
「え!?」
志悠の脳裏にバックに花を咲かせ、妙なBGMにのって両手を広げ走って来る長身の男が浮かぶ。
・・が、長居されると頭痛の種にしかならないので速攻手を振って追い出した。
「街亭で私を迎えに来たあの方ですよ」
「なっ!?・・・あの妙な男ですか!?」
拳を作ったと言う事は、彼も想像内で張コウを殴りでもしているのだろう。
「・・・あの方、毎回私と顔を合わせるたびに私や周囲の方に迷惑をかけて行きますが
それでも不思議と憎めない方なのですよ」
「そう・・なのですか?」
「ふふ、本当に・・・不思議なのですけれどね。・・・あ、この事はくれぐれも内密に。
あの方、良い事は三倍も十倍も都合良くとってしまいますから」
そこまで言って志悠はしまったと内心頭を小突いた。
余計な事をしゃべり過ぎたのか、やっと帰る決意を固めたと思った趙雲が
何か考え込むように腕を組んで固まってしまったのだ。
少しして・・・。
「・・・志悠様」
「・・・はい?」
「一つお願いがございます。もう蜀に降れなどとはもうしません。
ただ今すぐ可能な事なので一つだけ別れの餞別として・・・お聞き願えませんか?」
「・・・・」
いたく真剣な様子で簡単な事というのには少し違和感を感じたが
志悠は敵ながらも他意のない、そのまっすぐな熱意に答えることにした。
「・・・簡単な事でしたら」
「ありがとうございます!」
「あ、でも無理な事はちょっと・・・」
「いえ、大した事ではありません。少しの間黙っていて下さればそれで」
「それだけですか?」
「それだけです」
「・・・・ならかまいません」
「はい!では今からです!」
「・・・?」
うれしそうな趙雲に訳もわからず口を閉じる志悠。
何も言ってこなくなったのを確認してから趙雲は急に切なそうな顔をして
ものも言わず思いきり志悠を抱きしめた。
「・・っ!?」
「・・・約束です。しばらく黙って」
志悠は一瞬声を出しそうになったが耳元の声に制止される。
・・・・こ・・・こうゆう事で黙っていろと!?
志悠はうっかり承諾してしまった自分を呪いながら、身を少しよじってみるが
腕はまったく動かず逆にさらに強く束縛されたしまった。
しかしなぜか趙雲はそれ以上なんの行動もおこしてこない。
その気になれば大声を出して人を呼ぶ事もできたが、それ以上何もないのでは
志悠もそれ以上行動するにもためらいがある。
しばらくして・・・
「・・・・私は・・・・」
耳元で聞いた声は、今まで聞いた中で一番小さく悲しげな声だった。
「・・・私は今日初めて蜀にいることを悔やみました」
「・・・・」
「そしてあなたともっと早くに別の形でお会いしておきたかった。
私はたまらなく・・・悔しく思うのです」
太くはないが力強く暖かい腕に、苦しくないように注意してぎゅうと力がこもる。
「・・・しかし私はあきらめません。いつか必ず、あなたを・・・いえあなたをこの国ごと
お迎えに参ります。いつになるかわかりませんが・・・私は・・・あきらめません・・・!」
フッ
身体をはなしぎわのほんの一瞬、布を巻いていた額に何かが触れる。
それは一瞬で布越しだったが、やわらかさと視界の暗さや体勢で何なのかはすぐにわかった。
「・・・待っていてください、志悠様!」
それを捨て台詞に趙雲は教えられた通り、馬を借りて元いた国へ帰るために
そこから振り返ることなく走り去った。
残された志悠はというと・・・
「・・・・・・・・・・・」
たっぷり1分固まって、額を押さえながらふらりと近くにあった机によりかかる。
そして
ドン!!
机を割らんばかりに拳を打ちつけた。
「・・・・・まったく・・・なんという・・・!」
そこでようやく仏心をだしてはめられた自分に、腹が立ってくるやら情けないやら
赤くなる顔が羞恥のためなのか怒りのためなのか、混乱する彼女にはわからなかった。
「・・・・・まったく・・・!・・・涼しい顔をして策士なんだから!」
まだ怒りがおさまらないのかぶつぶつ言いながら志悠は急に
趙雲の出ていった方とは反対の戸口をにらみつけ・・・。
「張遼!!そこにいるのでしょう!出てきなさい!」
「・・・・・なんだ。バレていたのか」
などと悪びれる様子もなく、先程立ち去ったはずの張遼が戸口から姿をあらわした。
「・・・・・・まさか・・・見ました?」
「いいや、音だけ聞いていた。何かあったらそれなりの対処はするつもりだったんだが・・・
その様子だと・・・」
「余計な想像をしなくて結構です!!さっさと捜索隊をだして追跡するなり・・・・!」
びし!
「・・・痛っ!?」
怒鳴りつけようとしたところをなぜかいきなりデコぴんで返される。
「な・・・なんですか一体!?」
「・・・いや、色々な意味でなんとなくな」
「は?」
「それとも同じ行為で帳消しの方がよかったのか?」
「!!」
ぶん、ぱし!
志悠は素早く平手打ちをしようとしたが、張遼の方が一瞬早く反応して片手で阻止される。
「逆上すると判断が鈍るな」
「誰のせいですか誰の!!」
「色恋沙汰に弱いのがそなたの欠点でもあり・・・魅力でもあるのだがな」
「っ!!」
ぶん、パン!
今度は志悠の方が一瞬早かった。
「余計なお世話です!からかうのもいい加減に・・・!」
「私はからかってなどいないがな」
などと低く言いながら掴まれたままの手をぐいと引き寄せられる。
近づいてきた顔の片方は、たった今はたかれて赤くなってはいるが
表情は冗談の一切ない真剣そのもの。
志悠はいつも世間話をするはずの友人のただならぬ様子になかば本気であせる。
だが張遼は急に掴んでいた手をなぜかぱっと離し、おかしそうな笑顔を見せる。
「しかし・・・そんな様子では夏候惇殿が事あるごとに殺気立つのも、わかる気がする」
「な・・なんですかそれは!?」
「ま、気をつけることだ。私は慣れるまでは友人であるつもりだが
状況次第では手段を選ばないつもりでもあるのでな」
「ちょっと張遼!わけがわからない上に答えになっていません!」
怒鳴る志悠を無視して張遼は背を向けて帰っていく。
「ではな。少し頭を冷やしておかんと明日からの職務にさしつかえるぞ」
「・・・だから・・・!・・・・・・っ。・・・・・どうも」
ようやくいつのも冷静さが返って来たのか、志悠は怒鳴りかけた口を閉じ
なんとか作り笑いを形成することに成功した。
しかし張遼がいなくなってから少しして、志悠は何かを紙に書きつけて
乱暴に丸めるとくずかごに放り込む。
そこに書かれていたのは
馬鹿
の二文字のみ。
その二文字の単語を見たものは、心なし嬉しそうに馬をとばす趙雲でも
鼻歌を歌いながら城への道を歩く張遼でもなく
書いた本人以外、誰の目にも触れる事はなかった。
夜中3時まで下書き書いて、最後は直書きした蜀と魏をまたにかけたお話。
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