その日徐晃は世間一般にいうカゼというものにかかり、自室で一人寝こんでいた。
原因はいたって単純、昨日修行であたっていた滝のおかげだ。
我ながら・・・情けない事、この上ない・・・。
激しく咳き込んで丸くなりながら、徐晃は今日何度目かの反省をする。
上司には知らせをやって一日休みをもらっておいたが、明日あたり顔をあわせる典韋が
大笑いしてくれそうだ。
・・・こうならぬがために日々鍛えてきたというのにな・・・・。
そうやって病人の例にもれず1人弱気になっていると
部屋の外から聞き覚えのある声がやって来た。
「・・徐晃、入ってよろしい?」
「・・・?・・・・あぁ・・・」
覚えのある声だったのでさしも気にせず答えてしまったが
そっと自室の扉から入ってきたその人物に徐晃は一瞬目をうたがってしまった。
「・・・!?し・・・志悠殿!?」
それは魏の最高内政官であり、彼がひそかに思いを寄せている志悠零だった。
ためらいがちに近づいてくる志悠に慌てて徐晃は身をおこす。
「・・・あ、起こしてしまいました?」
「い・・いえ、少し・・その・・寝つけなかったもので・・・!」
「そうですか?それならちょうどよかったですね」
そう言いながら志悠は書物と一緒に持っていた器を徐晃の方へ差し出してくる。
「はいこれ、お見舞いです。食欲はないでしょうけれど
少しでも食べておかないと治るものも治りませんから」
「・・・・・」
ふわりと甘い香りが鼻をかすめる。
「桃・・・ですか・・・」
「・・・甘いの、お嫌いでした?」
「いっ・・!いえ!ありがだ・・ッ!・・ぐ!げふッ!」
あわてて否定しようとして咳き込んだ所を志悠は背中を軽くさすってくれた。
おかげで咳の方はおさまったが、かわりに熱の方が急上昇してしまう。
「・・か・・かたじけない・・・」
「あの、顔がかなり赤いようですけど熱の方は・・・」
「いえ大丈・・ではなく!少々高めでして・・!」
実は赤くなったり熱が上がるにはカゼとは別の理由があるのだが、あわててごまかしておく。
「ではもう少しの辛抱ですね。熱があるという事は身体が病と戦っている証拠ですから」
「・・・そう・・ですな」
何とか話をそらせたとため息をついていると、額にひやりとした感触が伝わってくる。
それは志悠の細くて冷たい、今だ触れた事のない白い手だった。
「・・・本当、少し高いようですね」
「−−−−!!!」
徐晃、精神修行の成果なく大混乱。
「寝つけないとはいえ、やはり無理にでも眠った方がよろしいのでは・・・?・・徐晃?」
しかし徐晃は呼んでも呼んでもきっちり固まったまま微動だにしない。
「徐晃、徐晃?どうかしまして?」
肩をゆすって呼びかけていると、やっと徐晃は油の切れた扉のようなぎこちない動きで
首を動かし、視線を微妙に志悠からずらしながら妙な事を口にした。
「・・・そ・・その・・そこまで・・下がって・・・いただけまいか」
「は?」
そこ、と指されたのは寝台から部屋の対角線上の部屋のすみ。
首をかしげつつも志悠がそこまで移動すると、徐晃は額の汗をぬぐいながら
部屋中に聞こえるほどの大きなため息を吐き出した。
「・・・ふーーーう・・・。重ね重ね・・・申し訳ありませぬ・・」
「・・・あの、お疲れなのでしたら私これでおいとましますけれど」
「あ!いや!別にそういうわけで・・・っ!ゲホ!ごほ!」
「・・・あ」
再び咳こみ出したのを心配して駆け寄ろうとすると、徐晃が慌ててそれを手で制した。
「・・・しっ・・・しばし!・・・少々お時間をいただきたい!」
「・・・?・・かまいませんけど・・・」
「・・・すみませぬな」
ぶびーー!!ごしごしごし、すーはーすーはー。
徐晃は鼻をかみ、汗をふき、深呼吸をして志悠をじーっと凝視した後。
「・・・・・・・・・・・・どうぞ」
と小さく志悠の元いた席をすすめてきた。
その一連の怪行動に志悠はある事に思い当たる。
「・・・徐晃、ひょっとして・・・女性に免疫がないのですか?」
八信ニ疑くらいのその問いに徐晃は少し沈黙した後、黙ってうなずいた。
考えてみれば志悠には思い当たるフシがいくつかある。
廊下ですれちがうにもえらく距離をあけて道をゆずってくれたり
少々の会話をしていても何かと理由をつけて逃げたがったり
自分より低い位置にある顔を直視してこない、その他多数。
「それならそうと、おっしゃってくださればよいのに・・・」
「・・・すみませぬ。・・言うに言えるものでもないもので・・」
確かに、私は女が苦手なのでなるべく近寄らないでください
などと正面きっていえる男も男ではないような気がする。
「では私これでおいとましますわ。体調が悪化しては大変ですもの」
「え?!あ・・!あの!」
出て行こうとした志悠を徐晃は何か言いかけたような声で止める。
「・・?どうかしまして?」
「あ・・いや・・その・・・」
名ごりおしさから思わず呼びとめてしまったものの、それ以降の会話を作り出せるほど
徐晃は対人関係で器用な方ではなかった。
それでも何とか次の言葉を考えようと必死になってバリバリ頭をかいていると
視界の片隅にいた志悠が楽しそうに笑っているのに気がついた。
「・・・どうか・・されましたか?」
「あ、いえ・・あなたが頭をかいているのを初めて見たものですから、ちょっと嬉しくて」
「・・・は?」
思わず出てしまった間抜けな声に、志悠はまた口に手をあてて笑うものだから
まじかでそれを見た徐晃の考えはよけいにまとまらなくなってしまう。
思い人が笑ってくれるのはうれしい事だが、正直徐晃の心境は複雑だ。
「ふふ、ごめんなさい。変な事で笑ってしまって」
「・・い・・いえ・・その・・・」
「それより徐晃、何かおっしゃりたい事がおありなのでしょうけど
病の身では頭もうまく働きませんし今日のところは大人しくお休みなさい。
私がとっておきの眠り薬を提供いたしますから、・・・ね?」
ぐっさ。
優しくさとされて、心に特大の矢が刺さる。
普段すずしげな顔で大量の激務をこなし、別名「志氷柱」の名をもつ彼女だったが
弱き者には迷うことなく手を差し伸べてくる姿勢は武将である徐晃にも変わる事はない。
徐晃は志悠のそういった芯の強く情に厚い所に心を寄せている。
やはり志悠殿はよいお方だ。拙者のような武にのみ生きる者など足元にもおよばぬ・・・。
などと徐晃が一人弱気な事を考えているとは露知らず、志悠は持参していた書物を手に取り
なれた手つきでそれを広げると、急に事務的な口調で妙なことを言い出した。
「それでは今月東部の内情です。商業300治安73、開墾は現在170で停止中
各城壁の強度は平均563で襲撃に強い状態ではないので御配慮ください。
次に兵数は56380予備3478徴兵数は月平均5000を基準に・・・・」
「・・・・え?・・・・あの・・・」
もちろん何の事だかわからず目を白黒させる徐晃だったが、志悠の方は気にすることなく
冷静に報告を続けていく。
「技術開発は270、弩と手甲の生産は4部隊のみ完了していますが、騎馬は来月中に
全隊へ生産配備される予定です。訓練状況は65兵糧は35780不備はありません。次に・・・」
「・・・・・・・・・・(仕事風景を見る機会がないので見とれてる)」
数分後。
「・・つきまして輸送物資は金17400兵6700兵糧1580。輸送先への警護は・・・・」
「・・・・・・ぐ〜・・・・ぐ〜・・・・・」
寝息に混じり始めたいびきに、志悠はそっと言葉を切った。
さすがにまじめな徐晃将軍とはいえ、病気で疲れた身体に
長々と内政にまつわる報告を聞かされていたのでは耐え切れなかったらしい。
堅物が服を着て歩いてる。
いつか義兄である夏候淵もらした言葉を思いだし、志悠は一人微笑みながら
起こさないようにそっと布団を肩まで引き上げてやった。
そこでふとそばにあった机にそのままになっていた桃に気づく。
・・・そういえば、食べもせず寝かせてしまいましたね。
そう思いながら何気なくそちらに手を伸ばそうとすると、ふいにぐっともう一方の手が
動かなくなってしまう。
「・・・?」
見ればいびきをかきつつも徐晃がしっかと袖を掴んでいる。
放してもらえないかと軽く手を引いてみるが、しっかりと掴んだ力強い手は一向に
開く気配を見せなかった。
「・・・・・・」
せっかく寝ついた所を起こすのも悪い気がするし、どうしたものかと考えていると
規則正しいいびきの中に言葉が入っているのに気がついた。
「・・・・もうし・・・わけ・・・・」
どうやら何かあやまっている夢でも見ているのか、眉間にしわを寄せるている。
少し苦しそうなので志悠は袖を掴んでいた手を起こさない程度に軽く握ってみた。
すると幾分安心したのか寝言が消え、規則正しいいびきにとってかわる。
どんな夢を見ているのかはわからないが、志悠はホッとした。
が、それもつかの間、今度は握っていた手を急に強く引かれ、抵抗する間もなく
寝台へ引き倒されてしまった。
「あ!・・・ちょっと!」
これはさすがにたまらず声をかけようとしたが、倒れ込んだ先にあった寝顔が
あまりに穏やかなため、志悠は開きかけた口をつぐんでしまう。
・・・・徐晃、ずるいですわ・・・。
無言でむくれる志悠に、目の前の病人は手を握りしめたまま寝息しか返してくれない。
「・・・本っ当に・・・ずるいです・・」
志悠はもう一度、今度は声に出してつぶやいた。
そんなつもりはないのにいつも迷惑をかけている。
自分はいつも頭を下げてばかりいて、いつ愛想をつかされるのか、許してもらえなくなるのか
そんな不安だけが積み重なっていく。
それでもそばにいてほしかった。
手が届かなくてもかまわない。せめて近くにいてほしくて思わず手を伸ばし
その手がふっと、あたたかさに包まれる。
ただそれだけなのに嬉しかった。
言葉は何もなかったが、それだけで十分だった。
だからもう少しこのままで・・・もう少し・・・もう少しだけ・・・・・・・。
「・・・・・・・・」
目をあけると窓から朝日が差し込んでいるのが見える。
横になったのは確か昼を過ぎたころだったので、どうやら一日たったらしい。
・・・そういえば・・・夢を見たのか・・・。
例によって内容はほとんど覚えていないが悪い夢ではなかったのは確かだ。
カゼの方はすでに完治しているらしく、熱もなく身体も重くない。
しかし徐晃はそこでふと妙な事に気づく。
寝台が妙にせまい。
・・・・というかさっきから何を握って・・・・・と、何気なく首をめぐらせた徐晃の心臓は
一瞬だけ本当に冗談抜きで停止した。
自分のすぐ横で志悠が熟睡しているのだ。
しかもその袖を自分がしっかり掴んでいたりするものだから
寝起きにもかかわらず徐晃の思考は一瞬にして大混乱におちいった。
「(んなッ・・!?な・な・なぜここに志悠殿が寝・・・!ちょ・・ちょっと待て!
拙者が袖を掴んでいたと言う事は何かよからぬ事をしでかしたという事になるのか!?
・・いや!しかし!!まがりなりにも昨日まで拙者病人の身だったはず!
・・・し・・しかし熱のせいで頭が錯乱していたという説もあるやもしれ・・・ぬぉあああ!!
拙者今の今までそのような事つゆ知らずのうのうと寝こけておったともうすのか!?
しかも何一つ覚えておらぬというのか拙者は!!それともこれは夢か!?
それとも今起きたのが現実・・・夢?!どちらなのだーーー!!?)」
とっくに熱の引いた顔を赤や青に器用に変色させながら一人無言で
取り乱していた徐晃だったが、不意に志悠が身じろぎしたと同時に
突然冷静さがよみがえってくる。
まず自分も志悠も服はきちんと昨日話をした時のままだ。
志悠にいたっては靴もはいたままで、あたりには争ったような形跡は一切ない。
・・・と、いう事はつまり・・・何事もなかったと考えるのが自然だ。
そう、何事もなかった。
今までは。
・・・・・・・・・・・・はっ!!?
思わず無意識に伸ばしそうになった手を、徐晃はあわててさっと引っ込めた。
・・・拙者・・・今・・一体何を・・・!?
自分で自分の手を掴みながら恐る恐る横をみると、志悠は今だ目を覚ます気配はない。
起こす事は容易だが、だがその前に・・・・。
その前に・・・・。
男らしくないのは重々承知の上だ。しかしこんな機会は滅多に、いやおそらく以後ないだろう。
徐晃の理性と欲の攻防は意外とあっさり決着し、そーっと志悠の横に片腕をついて
顔を近づけようとし・・・・。
ぎゅむ。
あと少しというところでいきなり鼻を掴まれた。
「・・・んなッ!!?」
「・・・・・・・・・徐晃」
声と共にぱちりと志悠の目が開く。
「・・寝込みをねらうとは随分と大胆になりましたね。それとも男のさがというやつですか?」
いつもの笑顔に声だけの怒気をにじませて、志悠は掴んだ鼻をぐいと押しやり起き上がった。
「し・・・そろ!これは!・・・せっひゃ・・・!」
「まさかとは思いますけれど、あなた夢の中でまで私にあやまっていなくて?」
「・・・!」
「・・・そうなのですね。私の手を取って安心していたからもしやと思えば・・・」
「・・・し・・・」
「徐晃」
「・・・う」
短いながら威厳のある声で名を呼んだ志悠は、きちんと座りなおし正面から
徐晃を見つめて怒るでもなくあきれるでもなく静かに話し始めた。
「私は前々からあなたに言っておきたかったのですが、自分の気持ちというのをもう少し
表に出してみてはよいのではないかしら」
「・・・・・」
「・・・あなたはいつも私に頭を下げてばかり。
もうしわけないとかすみませぬとかあやまってばかり。
・・・でもね徐晃、私はあやまられてばかりではあなたの事は何もわからないし
何もしてあげられないのですよ?」
「・・・志悠殿」
「私でお力になれるのでしたら少しでも私に心をうちあけていただけませんか?
夢に見るほど思う事がおありなのでしょう?」
ある。おもいきりある。
確かに言いたい事はあるのだが、徐晃には戦場で弓兵隊の中へ突撃する勇気はあっても
それを本人に向かって言うという勇気はほとんどない。
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