ここ数日、顔に貼り付けていた脱脂綿をそーっと取ってもらい
渡された手鏡で自分の顔の状態を確認する。
鼻についていた歯型、なし。口元のあざ、なし。
こすっても違和感なし、押してものばしても跡はまったく残っていない。
首の後ろの方は髪で隠れるから気にしなかったが
皮の薄い顔の方はそれなりの時間と手当てが必要で
ここしばらく男士達のいいからかいのネタになったりしたが
ようやく綺麗になおってくれたようだ。
「・・よっし。完治だな。悪目立ちはしてたが、そう深手でもなかったからな」
そのケガの原因でここ数日の手当担当だったまんばが
地味にしょげている所へ一応のフォローを入れ
用意してあった蒸しタオルで顔を思いっきりごしごし拭く。
残っていた塗り薬の残り香がぷぅんとしたが
数日ぶりに思いきり顔が拭けるのは実にすがすがしい。
仕草がまともにおっさんくさいが、おっさんなので仕方ない。
「ふーう、健康っていいなぁ。歳食うにつれてわかるこのありがたみ」
「・・・悪かった」
小さくてちょっと哀愁のこもった幸せをかみしめていると
近くから小さくて申し訳なさげな声がする。
確かにケガの件はまんばの責任だが、千十郎としてはもう済んだことだし
完治もしたので責める理由はもうどこにもない。
ただ今後の事を考えると笑って済ませるだけでは少々不安だ。
「なぁに、別に顔を使うような職業でもないから気にするな。
けど、次からは気をつけろよ。一度ならず二度までもだったから
次やったらその鼻ねじって思いっきり押し込むからな」
「・・もう少し、重い罰でもいいと思うが・・」
「そうか?ならあと思いつく罰としては、一週間の存在無視と
女装させて女物の下着買ってこいっていう複合パシリくらい・・」
と言い終わる前に水を振り落とす犬のような勢いでぶんぶん頭を振られる。
彼には肉体的な罰より精神的な罰の方がこたえるらしい。
「はは、まぁとにかく気をつけろよ。そう何回もある話じゃないだろうが
二回もやられるとそうも言ってられん。いいな?」
しかしそう念を押したはずなのに、なぜかまんばからは返事もリアクションもなく
あれ?と思って様子を見ていると、まんばは何やら神妙な様子でうつむいたままこんな事を言い出した。
「その事についてなんだが・・ずっと考えていた」
「?」
「俺はあまり器用な方ではないから
正直・・次があったとしても、自分を止められる自信がない。
手当てしている間も・・すごく・・その、色々したくて、我慢して、いたんだが・・」
そこで千十郎は雲行きが妙になってきた事に気付き
じわじわとうつむく角度が深くなっていくまんばから目をはなさず
いつ飛びかかって来られても対応できるよう足をこっそり組みなおす。
そうとは知らずまんばの方は、もう床と平行になるくらいにまでうつむいて
ぎこちない動作で自分の顔の、おそらく口と思われる部分を指しつつ。
「次に・・何かあっても大丈夫なように、というわけでも、ないが・・
・・・・その、一度・・だけ、させて・・・くれ、ないか?」
だんだんと小さくなっていく声で、かろうじてそう言いきった。
千十郎はその手の事に関してはそれなりに鈍い方だったが
その様子と話の流れからして何の事なのかは大体の察しがついた。
「・・つまり・・口付けさせろ、ってことか?口に?」
うつむきすぎて顔の全く見えなくなったまんばがこくりとうなずく。
そのあたりの経験がほとんどない千十郎としてはその気持ちはさっぱりだったが
それがかなり勇気のいる発言だというのだけは残る肌色の部分
つまり手がじわじわ赤くなるのでわかった。
うわぁ・・正直なのはいいけれど、それはそれで返答に困るなと千十郎は思う。
我慢できないと言いきるのは男としては正直なんだろうが
おっさんの唇を無意識で奪いたがるのってのはどうなんだ?
というか、ホントにどういう事なの?理屈が全くわからん。
んな事してもとくに楽しくないだろうし、やわらかくもないしいいニオイもしないし
そこまで勇気をふりしぼる利点がまっっったくわからないんだが。
と言いたいところだが、やってみなければわからないと言う事例は
それこそ世の中には山ほど星の数ほどあるし、別観点で考えれば
まんばの言う次の安全の保証ができないというのも正直困る。
馬鹿とこれにつける薬はないそうだが、抑制剤くらいにはなるかなぁと思いつつ。
「・・よし。じゃあしろ」
「・・・・・え?」
「それで気が済むならかわまん。先に許可を得てるんだし減るもんでもない」
「・・でも、あんた、初めてじゃないのか?」
「そうだな。誰ともやったことないからまったくの初回だ。
だがそんなもん、この歳になってまで後生大事にとっとくもんでもないし
何かと消極的なお前が自分で考えた末の事だ。
それに走り出したら激突するまで止まらないイノシシな所を直すつもりでと思えば有益だろ」
あれ?何だろうこのイマイチ噛み合ってません感は。
大福だと思ってたら肉まんだったような
柿だと思ってたら海のカキだったようなそうじゃない感は。
「それに口くっさいニヤケ顔の酔っぱらいとだったらさすがに嫌だが
ちゃんとした許可を取ってこっちを尊重してくれてるなら断る理由もない。
あとこれは個人的な話になるが・・それほどしたがる理由ってのも
ちょっと気になる、というか、知っておきたいというか・・
こういった話を最初に持ち込んできたお前のことだし・・・・うん」
だがそのそうじゃない感は後半の付け足しにぼーんと跳ね飛ばされ
まんばの全身に気力がぶうわとみなぎった。
そうして思いがけず許可の出てしまったまんばの心臓は
心の準備をするヒマもなく、早鐘どころかドラムゲームのハードモードみたいな動きを刻みだす。
「・・・いい・・・のか?」
「おう」
「・・本当に?」
「なんだ冗談だったのか?」
「違う!もちろん本気・・!本気で・・できたらいいなと・・思って、いたが・・」
「じゃあよかったじゃないか。偶然の棚ぼただ」
「・・・・・・」
それは呆気にとられるくらいの温度差だが
それはまんばにとっては広い川のほとりで偶然見つけた綺麗な宝石であっても
主にとっては足元に落ちてた変な形の石っころくらいの感覚なのだろう。
だが価値観はともかくいいというならしぶる理由はない。
ロマンも風情も情緒もないが、この場合、据え膳食わぬはなんとやらで大体は片付く。
「・・・じゃあ・・もらう」
「もうかじるなよ?絶対だぞ。フリじゃないからな」
「・・わ、わかった」
ぎくしゃくしながら近くまで寄って膝をつき
さっきまで手当をしていた顔に恐る恐る手をかける。
その顔は少しばかり呆れているような表情だったが
まんばは緊張のあまりそこまで気にしている余裕がない。
太い眉毛に少しばかり眠そうな目。
もう歳だとよく言うわりにはシワの少ない目元。
くしゃみの時に『にぇッべし!』と謎のかけ声のいる鼻。
その下にある口は・・よくしゃべって笑って怒って
たまに大事な事を言ったり言ってくれなかったり
刀にへんなあだ名をつけたり審神者のことをちゃんと言えなかったり
俺のことを本物とも偽物ともわからないまま、ただ無条件にまんばと呼んで
大体のことをまぁいいかで済ませてしまうこの口・・。
などと色々思い出したりしているうち
気がついた時には肩に手を置いた状態で軽く唇を合わせていた。
緊張のあまり意識が飛んだのか無意識の作用なのかわからないが
ともかくその最初の感触はというと、少しかさついていてやわらかいとも硬いともどちらとも言えなかったのは確かだった。
だが何というか、それを上回る一種の暖かさのような嬉しさのような
気持ちが浮くような晴れるような、とにかく何かが満たされるような気分が後から後からふうわりとどこかから勝手にあふれてくる。
おまけにそこから離れて自分の唇に指を当ててみても
その指先にまで感覚がうつって来るような錯覚まである。
「・・で、満足か?」
しかも困った事に呆れがちにそう聞いてくる主の顔が
滅多やたらと色付いて見えてまんばは言葉を失った。
「・・?おい、まんば?」
「・・・・・・・・・」
「まんば君?おーい?」
目の前で手をぶんすか振られてもまんばは声を出す気になれなかった。
今声を出すとこの表現しにくい感覚が声と一緒にこぼれ落ちてしまいそうだからだ。
ただ満足かどうかの質問の答えとしては『いいえ』だ。
もっと。一回では足りない。足りるわけがない。もっとだ。
なので答えるかわりに手を伸ばし、不思議そうにしていた顔を両手で捕まえ
強めに引き寄せてさっきよりもしっかり口付ける。
「・・ん・・ん?!」
予告なしにしたので軽い抗議らしきものが聞こえたがかまわなかった。
再度あわせたその感触はさっきと同じではなく
緊張が解けたせいなのかより感触が鮮明にわかり
もっとそれを感じてみたくて何度か触れては離れるを繰り返す。
主はまんばの袖を軽く引いて何か言いたそうにしていたが
しばらくして諦めたのか、袖を掴んだまま大人しくなった。
その間もそれ以後も、まんばはとにかく熱中していた。
むさぼる、とまではいかないが触れ合う瞬間の感覚が楽しいのか嬉しいのか
さっきの恐る恐る具合が嘘のように何回も何回も何回も口付けてくるので
千十郎はちょっと心配になってきた。
・・・これ、ちゃんと終わるのか?
もちろんまんばはそこまで考えていない。
ただただ夢中になっていて、たまに目の前をさえぎる布が邪魔になったりしたが
気にする時間も払いのける手間もおしいくらいに熱中していた。
角度を変え、強さを変え、接触時間を変え、ともかく思いつく限りの方法をためす。
「・・おぃ」
なんでこんな事をしているんだろうと思う気持ちはない。
ただ今は何も考えず没頭することが全てな気がする。
「・・お、いって」
なぜかと言われれば、ただなんというか・・とにかくいいのだ。したいのだ。
理由はわからないが、そうとしか言いようがない。
「・・・お・・・い・・っ!」
いやもうこのままずっと唇をあわせたままでもいいかもしれない。
息も言葉も隙間も距離もいらないような、そんな気に
「まんばァ!!」
ずゴ!というほっぺたへの鈍い衝撃でその思考はぶつりと中断する。
はたと気がつくと主がチョキとグーをあわせたような手を作ってこっちを睨んでいた。
「しっっッッッつこい!!減らんとは言ったがしつこい!!口がふやける!!」
そう指摘されてようやく我に返ったのか
まんばはぶわと赤くなって飛び退いて平伏した。
これは彼の覚えた謝罪姿勢もとれて顔も隠せるある意味便利な方法だ。
「・・すま!な、い!その・・・・すごく、良くて」
「よ・・?甘いものは食ってなかったはずだが・・」
「そうじゃない、ただ・・言葉にしにくいんだが・・・とにかく・・その・・」
「??」
様子からしてまた我を忘れたらしいので思わず小突いてしまったが
今回はかじってこなかったし、まんば本人も自覚はしていて反省もしているらしい。
ただその言葉にしにくい良い理由と言うのがよくわからないが
それも自分のまだ学んでいない部分の1つなのかなぁと千十郎は思いつつ。
「・・で、今度こそ満足したか?」
「・・・・・・」
「え、まさかまだなのか?」
まんばは少し考えて黙ってうなずく。
主には悪いのだが正直なところまだ足りなかった。
たとえるのが難しいが、それはほどよい温度のぬるま湯にいるような、ようやくありつけた樹液をすうカブトムシのような、冬の夜にあたたまったふかふかの布団の中のような、とにかく手放したくない感覚がある。
だがもう一回したくとも今怒られたばかりで許してくれるだろうか。
それでもやっぱり、でも怒られたばかりだし・・。
などという葛藤と物欲しさが同時に顔に出ていたらしく
千十郎は困ったような顔をして頭をかくと。
「・・わかったわかった。もうそんなに気に入ったなら気の済むまでしろ」
などと投げやりに言い放って、暗くなる一方だったまんばの表情がさぁと明るくなった。
「いい・・のか?」
「理由はいくつかあるが・・もう説明するのが面倒だ。
ただし、わしが拒否の意思表示をしたらちゃんとやめろよ。
やりすぎはダメだ気をつけろ」
「わかっ・・いや、その時は殴ってくれ。その方が早い」
「おいコラ、やる前からさっさと諦めるなよ」
「出来ない約束はしたくない」
「・・おうふ。正直だけどよろしくない正直者」
それでもじわじわと寄ってきて顔を近づけてくる悪い正直者を拒めない理由は色々だ。
捨て猫みたいな顔をされると断りにくいだとか、減るもんじゃないのも確かだとか
こういった経験もしておいた方がいいのだろうかなと思ってる事とか
あと別にしつこい以外で嫌な要素はないし、もうちょっとすると何かが掴めそうな気がするだとか。
まぁこうして色々理屈をこねて理論武装してないと
あっという間に流されそうになるわしが一番問題なんだろうがなぁ・・。
なんて反省をこめて内心でそっとため息をついていると
にじり寄ってきたまんばがはたと思い出したようにこんな事を言い出す。
「それとその・・俺とするのは、嫌じゃないのか?」
「お前あんだけしといて今ごろ聞くのか!?」
「それは・・!だからその・・夢中になりすぎていて、気がつかなくて
今こうして離れてみて冷静に考えると、そこが抜けていたと思って・・」
・・うん、そうだよな。お前たまにそうやって大事なところ飛び越して
というかぶち抜いて突撃してくる所あるよなと思いつつ。
「・・少なくとも嫌ではない。発言権を奪われるのは困るが
しつこいのをのぞけば・・まぁ悪いものでもない・・のか?」
それは首をひねりながらの曖昧な解答だったが、まんばはそれで満足したらしく。
「そう・・か」
珍しくほわと表情をゆるめた。
あ、そんな顔するんだなと思っていると、その顔がそのまま近づいてきて
腰のあたりにするりと手が回ってくる。
ん?腰?
手順が変だなと思っていると後頭部にも手が回ってきて
あれ?なんか様子が・・と思う間にまんばの顔が視界一杯に広がり
音もなく口がやわらかいものに塞がれた。
そうされて改めて思ったのは、人の温度が混ざる感覚というのが
妙というか不思議と言うかどうにも形容しがたいというか
ともかく何ともいえないような感覚で、まんばはこれがいいのかなぁと思っていると
その不思議な感覚の奥から何かぬるりとした感触が来て
上唇の裏を少しだけかすめていく。
「?!」
声が出せていたら『ぴぇ!?』という妙な声が出て身体がまともに跳ねていただろう。
がっちり腰を抱き込まれていたのでそうはならなかったが
その反応が気になったのか次にそれは下唇の裏側をくすぐってきた。
「!?・・!」
おいこら!何してる?!
浅い所をさぐるように動くそれはやけにくすぐったく
全身の神経がそこに集中したかのようで千十郎はとっさにまずいと思い
身を離そうと腕に力を入れようとしたが、思ったほど力が入らず
それを逆の意味でとったらしいまんばに強く抱き込められた。
「・・!ふ・・んん?!」
そうこうしていうるちまんばの行動範囲はどんどん広く深くなり
浅い所だけをくすぐっていた舌先が舌の裏側をすくってきて
逃げようとした拍子に鼻からヘンな声がぬけていき
すぐ近くでごきゅっという何かを飲み込むような音がする
・・おい、もしかしてこれ、ムチャクチャがっつりするやつじゃないか?
いや許可はしたけど!?節度と限度と用法要領を守って正しくしないの!?
そりゃ許可はしたけど!そこまで、してい・い・・とは、言って・・な・・
そのころになって千十郎はようやく気付いた。
腕どころか身体中に力が入らず、頭の中までぼんやりしてきている事に。
まさか一服盛られでもしたのかと思ったが、まんばに限ってそれはないだろうし
そんな時間も隙もなかったはずだ。
だとすると、あと考えられるのは・・。
わしの耐性がないだけなんじゃね?
実に単純で馬鹿みたいなその結論に行き着くのと同時に
後頭部にあった手に力が入り、つながりがさらに深くなる。
無抵抗になった主に気付いているのかいないのかわからないが
まんばは崩れ落ちそうになっていた身体を上手く支えながら
抵抗少ないその口を強引にこじ開け、その中を夢中になってむさぼった。
「・・う・・・ぐ、・・・ん!」
ものすごく間近から聞こえてくる水音をぼんやりと聞きながら千十郎は思う。
あちい。口の中もそうだが頭の中も身体のそこかしこも妙にあちい。
あとくすぐったいしふわふわするしちょっと眠いしむずかゆいし
?・・これって確か・・へせべの時と同じあれ・・だよなぁ・・。
などとぼんやりした頭で思っていると
口からこぼれたどちらの物ともわからない唾液がのろのろと喉をつたって落ちていく。
それはどこまでもどこまでもじれったい速度でゆっくり落ちていき
胸の奥に行ったあたりで行方がわからなくなった。
そのどこまで落ちたかわからない感が
今の自分と似てるなぁとどうでもいい事を考えていると
無意識に逃げるしぐさに煽られたのか、そらそうとする口が強引に引き戻され
逃げようとする舌を絡めとろうとまんばは躍起になってくる。
「・むぐ・・ん、ん〜!?」
おいこらちょっと・・待てやりすぎ、ちょっと・・ま・・
という主の意思とは裏腹に、まんばはもう当初注意された事を綺麗に忘れて
そこから中のもの全部吸い尽くさんばかりの勢いで夢中になっていた。
あたたかい。甘い。心地いい。やわらかい。
あらゆる良さがそこにあって、おまけにたまに漏れる吐息や声は耳に入るとぶわと身体を温めてくれるしもうこの良さといったら言葉にできない。
いやむしろこの場合、言葉にする必要はなだろう。だから口なのだと一人で納得する。
「・・・いい・・・すごく・・」
唇を舐めるため離した一瞬に素直な感想が漏れ出るが
まんばが言葉を発したのはその一瞬だけだった。
主が何か言おうにも息をしようにも息を漏らそうにもとにかくかまわず口は塞がれ
後頭部にある手は愛おしそうに髪に指をからめてくるし
腰に回された手も同じように背中や腰を撫でさすってくるし
お互いの口の温度が同じになっても口内の感覚がなくなってきても
ほぼ押し倒すような状態になってもまったく全然おかまいなしだ。
一体最初の恐る恐る具合はどこへ行ったのかと思うくらいで
さすがに千十郎も怖くなってきた・・かと思いきやその当人
疲れたのか眠くなったのか窒息したのかわからないが
まんばが気づいた時にはもうぐったりしきっていて動かなくなっていた。
そしてようやくその事に気付いたまんばはあわてて身を離し
ぐんにゃりしたその身をおろし、反応のない頬をぺちぺちと叩く。
「・・おい!おい!」
一応息はしているようだが、それ以上の動きが全くなくまんばはあせった。
またやってしまった。気をつけろと言われたばかりなのに・・!
内心おろおろするまんばだったが、よく見ると主の口周りはべたべたで
そこから首筋、鎖骨の下にまでどちらのものかわらない唾液のあとが残っていて
思わず衝動的に舐めとりたくなったが自分で顔を叩いて自制を効かせ
その肩を軽くゆすったり叩いたりしてみる。
やりすぎたというのが七割。
口付けだけでへばるほど初々しいのか何この可愛い生き物というのが二割。
今ならもっとやれるんじゃないかというのが一割の気持ちで
頬を軽くはたいたり額を撫でたり、たまに自分の顔も叩いて自我を保ったりしていると
主はかなりしてからゆっくりと目を開け、寝起きみたいな目でちらとだけまんばに視線をやった後。
「・・・・・・まんばよ」
「?」
「・・・何か面白いことしろ」
「は?」
いきなり何を言い出すのかと思ったが、それには一応の理由があって。
「でないと・・これからお前の顔を見るたび
やらしい事された記憶が勝手に出てきて、まともに顔、見れなくなる」
「え」
「つまり、今のでお前の顔が、近くにあるともんの凄くまずい事になる
仮面助平山賊野獣強盗野郎で登録された」
「ちょっと待て今考える!!」
その時のまんばの脳内は彼史上最高の回転速度だっただろう。
フル回転させてはじき出した判断に迷う時間などない。
かぶっていた布をひっぺがし、床に敷いて雑に転がってくるまり。
「焼き芋!!」
後の事など考えず、とにかく力の限り言い放った。
そしてそれを見ていた主がこちらを凝視すること5秒、10秒、20秒。
さらにこちらににじにじと這って来て、近距離で顔を見ることさらに数秒。
念のため顔や頭をさわって、しばし沈黙した後。
「・・・・・、中和された」
その一言でまんばの全身からどっと力が抜け
焼き芋があつあつだから冷ましてる最中の焼き芋になる。
「あ・・あっっぶねぇ・・気をつけろ。こういうのは最初が肝心だろ。
欲張って力の限りたたみかけてくるなよ」
「・・・返す言葉がまるでない」
いつもの習慣からか渾身の誤魔化しに使った布をかぶり直しつつ
まんばは申し訳なさげに項垂れる。
「大体、初回だって言ったのに、あんなにするやつがあるか?
やれる事全部、しかも動かなくなるまでって、お前・・ホント・・・あんな・・」
言ってるうちに思い出されてきたのか
顔を押さえて赤くなる主にまんばは思わず手を伸ばしたくなったが
これから先、顔を見るたび避けられでもしたら生きていけなくなりそうなので
ありったけの気力と精神力をかき集めて我慢する。
あぁでも、赤くなるところもいいなぁ。日ごろのほがらかな笑い顔もいいが
こういった出そうとしても出せないような表情も新鮮でいい。
そういえば夢中になっていて気が回らなかったが、最中の顔も見ておけばよかっ
ガッ
などともりもり溢れてくる欲を脳内だけで垂れ流していると
突然伸びてきた手に顔面を両側から挟まれ
ぎゅうーーと真ん中に向けて圧縮される。
それはわずかな助平心が顔に出ていたためか、単なる照れ隠しかわからないが
結構容赦ない力なので普通に痛い。
いた、いたい。痛い地味に痛いししわが寄る。顔が梅干しになる。
ごめんすまない俺が悪かったいたいたいあだだだだ。
そうしてしばらくファンに怒られそうな顔を作らされた後
急に手が離れて視界にいつもの、というか少しばかりムッとした主がいて
まんばは痛かったのも忘れて少しもったいないなと思ってしまう。
「・・ちくしょう、ヒヨコのクチバシって痛くないと思ってたら、とんだ目にあった」
「?・・ひよこ?」
「なんでもない!独り言だ!とにかく、もうあんなになるまでするな。
こういうのは相手を思いやる気持ちがなけりゃ獣と変わらんだろ」
「!・・じゃあ、またしてもいいのか?!」
「都合のいいところだけ嬉々として拾うな!わしの気持ちを考えた上でならだ!」
じゃあ結局いいんじゃないかというツッコミはどこからも飛んでこなかったが
それでも控えめに嬉しそうなまんばを見るとそれ以上言えなくなるのが主で。
「・・けど、まぁ・・ちゃんとした対応や対策ができないわしにも多少責任有り・・なのか」
「いや、それは・・・・・すまない」
「まぁ、山筋じゃないが、修行と経験ってやつなんだろうな。
とさかついたヒヨコと布かぶったイノシシ色したヒヨコのな」
ぷすっ
と、その時、なぜか床下から吹き出すような音がした。
まんばは『?』と思ったが、さっきの脳高速回転の名残からかすぐに推測は出た。
いるはずなのに姿が見えず、なおかつ出てこない口出ししないというのなら
多くいる男士達の中に当てはまるのはただ一人。
くりた(大倶利伽羅)だ。
主の提案でいつの間にか天井裏を住みかとしていた彼だったが
どうやら床下もテリトリーとしていたらしい。
え?待て、じゃあ天井と床のある所だと何をしてもバレるのか?
いやでもそんなに音たててなかったし主の声なしに出てくることもなさそうだが
やっぱり気持ちのいいものではないし何より暗黙の了解内で全部把握されるのか?
というかなんなんだあいつはネズミか忍者か刀じゃないのか忍者刀か。
その無言の葛藤を察したのか主は苦笑しながら
口の前に指を立てて、いくらか小声でこう言った。
「普段消極的なお前が何かに熱中するのは悪い事じゃないんだろうが・・
けど少しは落ち着くクセをつけような」
それはたぶん、目の前に気を取られすぎて暴走するなというのと
気をつければわかったんじゃないかと言う意味両方だろう。
だが完全に意識外だったまんばはうんともすんとも言えずで
主はそれを別の方にとったらしく。
「・・おい、お前まさかへせべ以上のムッツリ助・」
「わかったがんばるごめんなさい」
出来ない約束はしたくはないが、しなければいけない時もたまにある。
「・・よし、じゃあわしは少し寝るからな。・・しばらく起こすなよ」
「わかっ・・え?」
「・・どうも慣れない事、というか・・風呂と一緒の原理なのか
気持ちいい後って、のは眠く、なる・・んだよ・・なぁ・・」
・・え、ちょっと待て、いまなんつった。
動揺するまんばをよそに、ごろんとその場で横になって丸くなった主は
そのままぐうぐうと寝始めてしまう。
それは用意したごはんを前におあずけを命じられ
そのまま主人に置いていかれた忠犬のごとしだ。
実はへせべも経験しているこの状況にまんばはしゅうんとするが
ふいに近くからもふぁという妙な音がしたので、何気なくそちらを見ると
すぐそこで数センチ持ち上がった畳と、その下にあったジト目と目が合い
冗談ぬきでひっと息をのんだ。
それはやっぱり床下にいたらしいくりただった。
助けろと言われなかったからか、それとも興味ないのか関わりたくないのか
一切の邪魔をしてこなかった彼はじろりとこちらを一瞥した後
わずかな隙間から掛け布を出して、またこちらをじろりと見た後
もふっと畳の下へ戻り、ガタンと床板を閉める音をさせ気配を消した。
一言も言葉を発しなかったがそれはおそらく
アレコレもろもろに興味はないが、風邪はひかせるなという事らしい。
や、やっぱりいた。というかいつからだ?!見られてはいないのだろうが、音くらいは多少聞こえ・・いやしかしあんなわずかな音を聞けたとしても何の問題が、けど自分だって何を口走ったか覚えて・・あれ?いや、でも夢中だったから多少まずい事くらいは?えぇと、
・・・・・・うん、よし、一旦落ち着こう。
ぐるぐる考えまくって混乱しかけた矢先に主の言葉を思い出し、一度しっかりと深呼吸。
突進する事も多いけど、まんばはやれば出来る子だ。
そうしてある程度頭を整理し落ち着いたところで
くりたの置いていった掛け物を拾い、起こさないよう主にそっとかけ
自分もその近くで邪魔にならないように、かつまた何かしたくならないように背中を向けて横になった。
・・・また、させてくれるだろうか。ちゃんと頼めば大丈夫だろうか。
今度はできれば屋敷の外のどこかで
ゆっくり落ち着いて・・いいと言ってくれたから
それを、ゆっくり、怒られないようにできるように・・。
しかし多少落ち着いたとはいえ、思い浮かぶのはその事ばかりだ。
おまけに目を閉じるとさっきまでの唇の感触と中の温かさ
戸惑って逃げようとする舌や途切れ途切れの声と吐息
髪のひやりとした質感や硬直している腰の硬さに
ぐったりして動かなくなった時の顔と、少し開いたかぶりつきたくなる口とかそれと・・
「・・〜〜〜!!」
顔の前で布をかき集め、まんばは心の中だけでうなった。
うそだろう?まだ足りないのか?いや足りないが。
ここまで欲が出るものなのか?底なしじゃないか。
でも・・良かったし、風呂と同じくらいいいと言ってくれたし。
いやそれと同等なのはいい・・事なのか?
でも似てるといえば似ている気もするし、悪い事ではない、のだろうか・・
などと一人で悶々と考えていると
ふと布の隙間からさっきまでなかったはずの何かが見える。
はっとしてよく見るとそれは廊下に立っている誰かの足だ。
ここは主の部屋なので普通なら『昼寝してるのか、じゃあ起こしちゃ悪い』と立ち去るものだが、それはいつまでたってもそこからどく気配がない。
まんばは猛烈に嫌な予感がしてそっと目を閉じてみた。
夢か幻だったらよかったが、それは再び目を開けてもやっぱりそこにいて
時間がたつにつれじわじわと刺すような威圧感を放ち始め
嫌な汗が勝手に背中からにじみ出てくる。
というのもその足はどう見ても見覚えのある足だ。
なにせ何度もケンカして何度も蹴られた事がある足なので見間違うはずがない。
そしていつまでたっても立ち去ることのないそれに、まんばは覚悟を決めた。
・・・そうか、これは罰か。
勢いにまかせて至福をむさぼった俺への罰か。
そしてまんばはさっきの幸せが飛んでいかないよう、しっかりと自分の奥へしまいこみ
それをバネに勇気を持ってその足の上へと視線を移動させ・・・
「・・主、・・・い・・・」
そんな声と一緒に肩のあたりを軽くゆすられ意識が明るいところへと押し上げられる。
そう長く眠っていたつもりはないが、誰かが声をかけて起こしに来たということは・・
「・・・主、起きて下さい。夕飯の時間です」
あぁやっぱり。もうそんな時間か。
目を開けてまず見えたのは薄暗くなった庭先で
身を起こすと丁度よい温度を提供してくれていた掛け物がぱさりと落ち
声のした方を見ると水の入った桶を横に置いたへせべが待機していた。
「・・・む、すまん、寝過ごしたか?」
「いえ、まだ配膳途中ですので充分に間に合います」
そう言ってへせべは桶の中にあった手ぬぐいをとって軽めにしぼると。
「それより主、こちらへ」
と促してくるので、起きぬけで意味がわからない千十郎は
『・・?』と首をかしげ、その様子をへせべは数秒ほど黙って見ていたが。
「・・失礼します」
「?・・わ」
やった方が早いとばかりに手を伸ばし
しぼった手ぬぐいで主の口周りをこしこし拭き始めた。
わぁなんだなんだ。もしかしてよだれでも垂らしてたのか?
それで何回か袖や書き物中の紙を汚したことはあったが
それにしては広範囲を拭いてくるし、首やその下の方まで丁寧に拭きにかかって
・・・ん?
そこまでされて千十郎はようやく事の次第を思い出し
真顔のまま黙々と手を動かしているへせべに恐る恐る聞いてみた。
「・・・あの、へせべ」
「はい」
「もしかして・・・まんばから聞いた・・のか?」
「断片的にですが」
「そうかぁ・・」
さすがというか何と言うか、ばれるの早いなぁと妙な感心をし
さほど怒っていない様子にいくらか安心しながら黙ってされるがまま大人しく終わるのを待った。
それくらい自分で出来ると言えるような雰囲気ではない。
ただへせべはそれ以上何も言わず、もくもくと主を拭いて
最後に広げた手ぬぐいを綺麗にたたみ、顔全体にかぶせるようにして拭いてからそれを桶に戻した。
「終わりました」
「・・すまん」
「主が謝られる事ではありません」
それでもそうする事でいくらか気は済んだらしいへせべは
少しの沈黙を置いた後、ぽつりと口を開いた。
「・・許可は出されていたそうですね」
「・・あぁ」
「軽率です」
「えぇと・・スミマセン」
「主の判断ですので謝られる事ではありません」
えぇえ?じゃあどう言えばいいんだよと思うが
それじゃ口で勝てないダメ彼氏のパターンみたいなので言わないでおくとして
それよりも気になるのは・・。
「・・あの、へせべ」
「はい」
「怒って・・る?」
するとへせべ。少しムッとしたような顔をした後。
「己の油断と慢心と浅はかさに、多少なりとも怒りは感じておりますが・・」
まだ色々な感情を消化しきれてないような顔でこう話し出した。
「主は以前、自分は取り合うべき陣地ではない。
純白の新雪のごとき純心をみだら・もとい、みだりに荒らす事を競うなと言われました」
「・・うん。後半あちこちひっかかるが、それっぽい事は言ったな」
「で、あれば私はその意志を尊重し、激昂するよりも冷静に機会と折を見計らい
一時の勢いなどではなく、折と機会と状況を見て頂戴できるよう努めたく思う次第」
それはつまり、腹は立つけれど自分はあいつ(まんば)とは違うので
タイミングと状況を見てちゃんとしたい。ということらしい。
だがそれはあくまで努力目標だというのを
続けざま襲ってこられない事にほっとしていた主は気付かなかった。
「・・そうだな。その方が助かる。ありがとなへせべ」
そう言うと、そこでようやくへせべは表情をふっとゆるめ。
「そのお言葉だけで・・我を抑えた甲斐がありました」
主にだけ向ける柔らかい表情をした。
ただ千十郎はたまに思う。
この柔らかさをもうちょっと他にもゆずれないもんだろうか。
自分に厳しく他の男士たちにも厳しく他もろもろに厳しく
ぶっちゃけ主以外の全部に厳しいのでは精神衛生上よくないのではないか。
いやもう今までのあれこれを思い返すに、完全に手遅れな気もするが。
「それとその・・もう一つ聞いてもいいか?」
「はい、何なりと」
「蒸し返すようで悪いんだが、まんばはどうした?確か近くにいたと思ったんだが・・」
「聴取後に鉄拳制裁し、簀巻きにして庭先へつるしておきました」
「抑えてねぇ!さらりと仕置きが完了してる!?
やけに聞きわけがいいと思ったら!」
「ご心配なく。逆さづりにはしておりませんし一撃しか殴っておりませんので」
「お前基準ではそうかもしれんが今は冬で雪ふってる!
あとその一撃は複数発を一個にまとめた渾身の一撃だろ絶対!
とにかく場所教えろ主命だ!」
「非常に残念なのですが、我々は凍死する事はないかと思われますので
一晩つるして水分をとばしきるか低温で仮死状態にするのが妥当かと思われ・・」
「へせべぇーー!!」
そしてその後の捜索の結果。
庭のもんの凄くわかりにくい場所に簀巻きでつるされていたまんばは
『猛省中』と書かれた湿布をちょっと形の変わった顔にはられた状態で発見され
発見時の顔色が凄かったらしいが、主の処置が早かったおかげで
なんとか大事には至らなかったそうだ。
「おーいまんばー。昆布茶もって来たぞ、起き上がれるか?」
「・・わざわざ起こさずとも漏斗をかませ直接流し込むのが効率的かと思われますが」
「へせべ〜」
それ大昔にあった拷問の一種だろというツッコミは心の中だけでして
念のため温かくして寝かせたまんばの近くに、お茶とおやつのゆでたまごののったお盆と
まだ地味に根に持っているらしいへせべ持参で座る。
へせべの方は一応置いていこうとしたのだが
『嫌ですお供します』の一点張りなので仕方なしの同行だ。
冬用の布団を数枚をのせられ湯たんぽと一緒に寝かされていたまんばは
のそりと起き上がり、へせべを少しだけ見てからじーーっと主の方を凝視し。
「・・それより・・あんたの口の中の方が、ずっと温かいから、もう一かむぐ」
こりたと思ったらまったくこりてなかったその台詞は
半分にわったほどよい温かさのゆでたまごで中断され
残り半分は無表情で立ち上がりかけていたへせべの口に押しこまれた。
「よし、二人ともいい加減にしろ。この上まだもめるつもりなら
マジもんの平手打ちしてから今の任を解き二人まとめて永久遠征に出すぞ」
二人はもぐもぐしながらもきちんと頭を下げ、ごめんなさいの意を示す。
それは罰にしては軽いように聞こえるが、この二人からすればほぼ死刑だ。
なので今回の件、その主の一声で終了という事になったのだが
その時の経験からか、まんばは主との口付け味がゆでたまご味というヘンな記憶がついてしまい、ゆでたまごを見るたびに妙にもだもだと落ち着きがなくなり
へせべも同じ印象がついたのか、食べる前にしばらく凝視の後
塩もふらずに大事にすこしづつ丁寧に味わって食べるようになったとか。
ちなみにその事に関して主は『誰も巻き込まれないならもう何でもいいや』という
甘いも色気も身も蓋もない結論で落ち着き、ゆでたまごを食べる時には
塩ふったり醤油たらしたり酢をかけたり自作マヨをかけたり色々やって
そのたびにかけるものが別派の男士達と余計な論争になり
つまり元々そういった事にうといせいもあってか
主だけが初チューがどうとかいう話からはじき出され
ゆでたまごに何つけるか論争の中心に居座る事になったそうな。
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