その日、千十郎なりに一生懸命育てた精鋭を集めた第一部隊は全滅した。
原因は後から調べてわかった事だが、検非違使(けびいし)という敵だった。
それは通常ある条件を満たした合戦場でしか出現せず
こちらのレベルに応じた強さで出る敵らしいのだが
その時はたまたま期間限定のとある場所に黙って配置されていて
おまけにこちらの強さ関係なしのレベル固定の強さだったらしい。
それがどんなレベル固定だったのかは知らないが
こちらがなすすべなく全滅した事でこちらよりも遥かに上だったのは確実。
・・そういや見た瞬間変だと思ったんだよ。
なんか水色でギラギラしてたしギラギラした金色の紋章つけてたし。
大体それって前にこんすけから話だけさらっと聞いて
何か怖いから近づかないでおこうと思ってずっと放置してたやつなのに
何の予告もなしに、しかも固定上位レベルが出てくるってどんなタチの悪さだ。
便利な時もあるけれど、期間限定って怖いんだなぁと
「・・・わしは心底思ったわけである・・・マル」
「しめるな起きろ目を閉じるな寝るな諦めるな死ぬなぁー!!」
半泣きのまんばの声にまくし立てられつつ目をこじ開けて見回すと
さっき手入れ部屋に放り込んだと思った連中が全員いて
なぜか全員悲愴な顔でこちらを見ている。
あぁ、そういや壊滅部隊の最後の一人を手入れ部屋に放り込んだところで
気疲れおこして倒れたんだっけか。
と思い出しつつ身を起こそうとすると
嗚咽とうなり声を合わせたような音を出すまんばに飛びつかれ床に逆戻りした。
その拍子に握っていた手伝い札の束が床に散らばるが拾う気もおこらない。
気を失っている間まんばをなだめてくれていた石丸の話によると
主はボロボロになった部隊を無言で見回した後
まず隊長のまんばと近くにいた石丸の首根っこを掴み
両方に手伝い札をぺんぺん貼り付けて手入れ部屋へ放り込み
手入れが終了した瞬間、今度は肩で息をしていたへせべと山筋の腕を無言で掴み
やはり手伝い札をべしべし貼って部屋へ押し込む。
その作業を淡々と繰り返すその手際に石丸が何かに憑かれでもしたのかと思ったそうだが
そうして代わる代わるに手入れを済ませ、最後の一人を放り込んだ直後
主は電池切れを起こしたかのようにバタンと倒れ、さっきの事態にいたったらしい。
「・・あっはは〜・・面目ねぇ。全滅の件もそうだが、治りたての連中に余計な心配かけた」
「・・気に、するな。こんな事は、合戦場に出る以上、折込み済みの話だから・・
だから、倒れるほど気に、するな。ホントに・・もう・・」
起き上がれるようになった主の膝の上で鼻をすすりつつ
途切れ途切れにもらすまんばとは対照的に
山筋があらゆる陰鬱をまとめて豪快に笑い飛ばす。
「カッカッカ!だがこれも経験、糧、そして修行である!
主の言葉を借りるなら、ま、こんな事もあるわな。という事案である!」
「・・はは、そういやそうか。うん」
しかし笑い返そうとするその顔色はやっぱりさえないので
とにかく今日は主も含めて全員休もうという結論になり、その場は解散となった。
が、問題はその後。
その時にやたらと静かだったある男士のおこした行動が
今回の話の主軸だった。
その日の夜。
まんばからは何も心配しないでいいからとにかく寝ろ、と言われたものの
眠くもならず眠る気にもなれず、千十郎は自室から見える月を窓際でぼんやりながめていた。
月は当然のようにそこにあるし、何があっても勝手に出て
いつの間にか勝手に沈むもんだと今更ながらに思う。
男士達が怪我をして戻ってくるのだって当然のことで
相手を倒すことができるのならこちらが倒される場合だってあるだろう。
「・・頭でわかっちゃいるが、気持ちがついていけない・・ってか」
首をかきながら誰に言うでもなくぽつりとつぶやき
眠くはないけど無理にでも寝ちまおうかと外に背を向け・・
「・・?」
た、ところで何かに気がついたように後ろを振り返る。
しかしそこにはさっきと変わらない景色と月明かりがあるだけで
振り返るような要素は何もない。
ほんの一瞬、誰かに呼ばれたような気がしたのだが
音も声もなかったし姿も気配も近くにはない。
だが千十郎は気のせいだと片付けず、外にあった草履をはくと
月明かりだけがたよりの庭を一人でさくさく歩き出した。
審神者の感覚か、それとも元からある別の第六感的なものなのか。
暗い中でその足も目も迷うことなくある一点の方向へと向かう。
しばらく歩いて行くと見えてきたのは敷地内にあった土蔵だ。
ただの物置として使っているそれは、よく見るといつも閉まっているはずの扉が少し開いていて、小さな疑問はあっさり確信へと変わった。
だがこんな時間にこんな所に入り込むやつがいるのかと思いつつ中をのぞくと
1つだけある窓から月明かりが入ってきている以外、とくに変わったところは・・
と、思ったがその月明かりの下に何かがある。
置き忘れされたような状態であったそれは見たことのある刀だった。
ただその近くにはそれを持つはずの本人が見当たらない。
置きっぱなしでどこに行ったのかと思いつつそれに近づこうとすると
ガチン
なぜか背後で扉の閉まったような重たい音がする。
あれ?自動で閉まるような作りじゃなかったはずなのになんで
と思いつつ振り返ろうとすると、視界のはじで何かが動き
どんといきなり腹を押され、ぐるんと視点が床に切り替わる。
「ぐぅえ!・・え?」
誰かに担ぎ上げられたとわかったのは、それが置いてあった刀を乱暴に拾い上げ
二階への階段をどかどかと上がり始めたころだ。
視線を移動させるとさっきの刀が白い手袋の手に掴まれていて
刀についた布がふわふわと歩くたびにゆれている。
それでこの人物の大体の正体は知れたが
なぜこんな事をするのかの理由がわからない。
「??おい?ちょっと?」
一応声をかけてみたが、それは足を止めもせずの無反応。
だがそれは階段を上がりきったところで力尽き、千十郎ごと床にぐしゃと崩れ落ちた。
「うぇ?お、おい?」
治りたてが何でこんな所でこんな事してんだと聞きたいが
それはふんと気合を込めなおして千十郎を担ぎなおすと
薄暗い場所をさらに奥まで歩き、やっぱり力尽きて再び千十郎ごと崩れ落ちる。
「おいだから?!」
めげずに心配する主に対し、それはやはり無言のまま身を起こし
再度担ぎなおしをかけ物の雑多に置かれた部屋のすみにたどり着き
なんとか乱暴ではない程度に担いでいた千十郎を床におろした。
そしてそれは軽く肩で息をしながら這うようにこちらまで来ると。
「・・・首を・・はねられに、参りました」
いきなりな事を神妙な様子で告げてきて
まったく意味のわからない千十郎は数度まばたきして首をかしげた。
「ん??なんだって?」
「・・申し訳ありません。図らずの事態とは言え・・
やはりこの首、私情により差し出すこととなりました」
え?んえ?いや、いやいやいや。
一体何の話だ物騒な。と思う間になぜかうつぶせに返され
背中を押さえつけられて手を後ろにねじられる。
そこまでされて千十郎はようやく『あ、まずい』と思った。
何かをほどくような音と感触からして両手を後ろで縛るつもりだろう。
縛った後どうするつもりなのかは首と引き換えという点と
こんな所で縛ってまでする行為という点で察しはつく。
月夜の魔力に囚われたってわけじゃないんだろうが
真面目なこいつにしては珍しいなという思いと
そのうちするかなと思ってはいたが、ホントにするかという思いを
他人事のように整理しつつ、千十郎はあまり慌てた様子もなく声を出した。
「・・案外限界点が低いなぁ、へせべ」
その途端、驚くほど手際よく縛っていたその手がぴたりと止まった。
へせべも今回壊滅した部隊の一人で
そういえば手入れの後に姿が見えないと思っていたが
いつの間にやらこんな所に一人で潜伏していたらしい。
様子からしてこちらの言葉はまだ聞くようだが
少しして無言で縛る作業を再開してきたので説得が通じるかどうかは五分五分だろう。
千十郎は考えた。
状況的には最悪だ。もうすぐ手は使えなくなるし
使えたとしても力でかなわないのはもちろんの事
助けを呼ぶにもここは密閉性が高く外に聞こえるかどうかもわからないし
口を塞がれでもしたら即アウトだ。
だがへせべは自分のやっている事を理解した上でこんな事をしているらしく
口ぶりと行動からして元から罠をはっていてこうしたわけでもなさそうだ。
・・つうかお前、わしの貞操と自分の首を天秤にかけて首の方が軽いのかよ。
ある意味男らしいといっちゃ男らしいが、難儀なもんだなぁとのんきに解釈する。
もちろん千十郎はへせべの首なんて物騒なもの欲しくないし
このまま大人しく喰われるつもりもまったくない。
と、なるとだ。
千十郎はすうと息を吸い。
「へせべ、重い。どいてくれ」
強めに短く。最小限の言葉を口にする。
するとへせべは一瞬身を震わせたかと思うと
拍子ぬけするほどあっさり手を止め、そこからどいた。
千十郎はそこから後ろ手に縛られたままよいせと起き上がり
そのままへせべの正面に腰を下ろす。
何やらおかしな構図だが、それで逆に頭が冷えたのか
一種殺気に似たその場の鋭い空気がすうと薄まっていく。
そしてそんな妙な空気の中、主がなんでもないような様子で思いがけない台詞を口にした。
「・・あのギラギラしたの折られそうになった時、わしの事でも思い出したか?」
へせべがびくりと身を震わせ怯えたような目で見てくる中
仕方なさげな様子で主はさらに言葉を続けた。
「死ぬ、二度と会えない。あれもこれも言い残した、主命もやり残した事も山ほどある。
もう話せない笑いあえない、時間を共有できない
どうしてもっと一緒にいれなかったのか、あれもこれも、どうしてもっと
どうしてどうしてどうして・・・だろ?」
音が出るほど歯を食いしばったへせべの顔がl苦しそうに下を向く。
どうやらそれがこの奇行の発端らしいが、大体を察した主に咎める様子はまったくない。
「いや別に怒ってはない。お前の行動と死に間際の人の思考例を照し合わせて
そうなんじゃないかなーと思っただけだ。
あとお前、執着心が強いと言うか、寂しがりやなところあるからな」
ずばずば核心を突いてくる主にへせべは返す言葉もなく歯を食いしばるばかりで
千十郎はそんな頭をなだめるつもりで撫でようとしたが
手を縛られていた事を思い出して諦めた。
「あとなんでこんな所でこんな事してるかって推測は
大怪我するしわしもぶっ倒れるしでワケのわからない不安にかられて
今わしを目の前にすると何しでかすかわからないから
落ち着くまでここで篭城しようと思ったら、間の悪いことにわしが来て
ぶり返してきたあれこれが色んなものを蹴飛ばして今に至る、ってとこだろ」
へせべは黙って姿勢を正し、きちんと頭を下げてくる。どうやらそれで正解らしい。
この普段いい加減で能天気な主は妙な所で異常なほどに頭がきれる。
「あと断っておくが首はいらんぞ。もらったってどうしようもないし。
そもそもせっかく生きて帰ってきたってのに、なんでまた死にたがる」
「ですが主・・」
「止めて止まるもんでもないからこんな事したんだろ。
それに未遂で止まってるしお前も反省してるし、わしも気にしてないから問題なし。
反論あるか?受け付ける気まるでないが」
そう言われてしまってはぐうの音も出ず、へせべはぎゅっと口を閉じる。
うん。言えばちゃんとわかってくれるのはいい事だと思いつつ
千十郎ははたと思い出したように手を打とうとしたが
やっぱり縛られたままなので諦める。
「そうだ。今のお前にはもう遅いかもしれんがこの際だ。
謝っとこうと思ってたこと、今言っておく」
「?」
「そんなに大した話じゃないが、まぁ聞いておいてくれ」
そうして顔を上げたへせべに見えたのは、手が使えていれば頭をかいていただろう
少しばかりすまなそうな顔をした主の顔だ。
「すまんな。こんな方へ引きずり込んで。
最初の頃、わしがもっといい言葉をかけてやれてたら
お前がこんなに苦しむこともなかったろうに」
へせべが無意識で息をのむ。
・・この人は、何を言っているのだろう。
「謝ってどうなるもんでもないが、わしの自己満足もかねて一応、な。
・・こんな方へ引っぱって悪かったな。長谷部」
あぁ何ということだ。
この主は、俺を罰しも咎めも罵りもせず、この期に及んでまだ俺を気遣うというのか。
そう認識したのと同時にぐわっという勢いで目が熱くなり
視界が勝手にぼやけて歪み出す。
「・・・いえ、いえ!いいえ!主に非はないのです!
全てはこのへせべの愚考と失態!俺の弱さゆえの愚行なのです!
主には!何の・・!落ち度も・・ない、のに・・!」
「あーあーもう、言ってるそばから・・おぉい、そんなに泣くなよ。
今誰かさんのせいで撫でてやれないんだぞ?」
そう言ってもごもごする主を見て、ようやく縛っていた事を思い出したのか
へせべはずるずる鼻をすすりながらそれを解いてくれた。
結構かっちり縛られていたので跡がついていたかも知れないが
千十郎はまるで気にせずどこからか布を引っぱり出して
顔から出るものほどんど出しているへせべの顔をごしごし拭いてやった。
「ほらみろ、手はあいてた方がいいだろ」
「・・はい」
「首がないと拭いても撫でてもやれないだろ」
「・・・はい」
「生きててよかったろ」
「・・・はいぃ」
うんよかった。どうなることかと思ったが、納得してくれて何よりだと
千十郎は自分がされかかった事をまるっと忘れてのんきに思う。
この危機感のなさというか、無知か知りすぎのどちらかで楽天的な所が
彼の長所でもあり同時に短所でもあるわけだが
その両方に翻弄されたへせべはしばらくぐすぐすやって
やがて出すもの出し尽くして落ち着いたのか、自分の懐から布を出して
顔を拭いて居住まいを正す。
「・・・主、お見苦しいところをお見せして・・申しわけありません」
「はは。なに言ってやがる。お前の真っ向むき出しが見苦しいわけあるか。
むしろそういう所が見れた分、安心したくらいだ」
「・・・・・」
「だから前に言った自分を愛せってのは継続だ。
お前は真面目すぎて自分に厳しすぎるところがある。
一人でどうにかしようとするなら、自分に優しくすることも大事だ」
弱い自覚があるならなおさらな、と付け加える主にへせべは深々と頭を下げる。
だがこの後に放った何気ない台詞がこの後の展開を大きく変えた。
「それと助けを呼ぶのも立派な手段だ、覚えとけ。
上手くやれるかどうかわからんが、わしも可能な範囲で手は貸すから」
その台詞が引き金だったのか
『な?』と小首を傾げられたのが原因だったのかわからないが
へせべはなぜかぶるっと身を震わせて急に目つきを変えた。
少しばかりその目に覚えのある千十郎が『あ、もしかして』と思っていると
へせべは大分しっとり湿った布と手袋をはずして遠くへ置き
自分の手を服の汚れていない部分でごしごししてから神妙な面持ちで主の手を1つ取り。
「・・主」
「ん?」
その様子に千十郎は困ったような笑みを作る。
様子からして次に何を言われるかは大体察しがついていたからだ。
「・・今ここで、許可は・・・いただけませんか?」
あぁ、やっぱりかぁ。
まぁ遅かれ早かれ、というか今さっき食われかかってたからそうくるよなぁ。
人間の好きだのなんだので、行き着く所はそこというのを知らないわけではない。
ただ今までそこに行き着いたためしもなければこんな目にあう事も皆無だったし
このへせべの場合、色恋アレこれの順序がガッタガタだったので
知っていた事が役に立たなかったというのもある。
などとつらつら思っていても握りしめられた手から伝わってくるのは
ただただ真っ直ぐな心根と向けられた事のない静かな情熱
あといくらかの恐れと緊張だ。
それもそうだろう。おそらく意図せずの事だろうが、以前話をした好条件がまさに今だ。
二人きりで他に誰もおらず、蔵の中で音が外にもれにくく
邪魔も入らないという恐ろしく整った好条件。
情緒と風情はまるでないが、情熱と勢いときっかけはたんまりある。
・・まぁ生きてりゃそんな事もあるわけで、か。
上を見ながらそんな事を考えた千十郎は、少しして肩をすくめ答えを返した。
「・・お手柔らかにたのむ。ただし勢い余って殺さんでくれよ」
その途端、へせべは顔一杯に嬉しさと安堵の入り混じった子供みたいな表情を見せたが
慌てたように顔を引き締めると、取った手にうやうやしく口付けた。
だがいざ念願の許可が出たとは言え、そこはただの広めの物置き蔵の中だ。
布団も畳もなく床もホコリっぽいので、使えそうなものをとりあえずかき集め
予備の座布団や気まぐれで栽培した綿花の袋も動員して急ごしらえの寝床を作る。
「風情もなにもねぇ大急ぎ感丸出しで笑える」
巣を作る鳥のようにせっせと物を運んで場所を作るへせべを見ながら
正直な感想をもらすと手も足も止めないままへせべは器用に頭を下げてくる。
「・・申しわけありません。準備の行き届いた環境をご用意できずに・・」
「まぁこんな状況なら今さら贅沢も言えん。
そもそもお前、今やっぱりダメだって言われて諦められるか?」
「今回ばかりは主命とあれど承服しかねます」
「・・だろうなぁ」
初めての部隊壊滅や何度かのおあずけを経験したからとは言え
主従とか忠誠とか蹴飛ばして拘束から入ろうとしてきたもんなぁ。
・・いい加減ちゃんと受け入れてやらないと、冗談抜きで喰い殺されそうだ。
なんて事を考えつつ、とりあえずここにと敷かれたへせべの上着に座って
妙な巣作りをぼんやりながめることしばし。
まぁなんとかゴロゴロしても痛くない程度の寝床もどきを作り上げたへせべは
すうと1つ深呼吸して千十郎の前に膝をつき。
「では主」
「ん」
ここに引きずりこんで犯罪まがいな事をしようとした奴とは思えないほどの丁寧さで
主の手を引き、急ごしらえの場所に座らせると両肩に手を置いてそっと押した。
が、そんな時になって千十郎はある違和感に気づいた。
というのもへせべの手つきが妙にぎこちなく軽く震えていたからだ。
気のせいかと思ったがそれは見ているとだんだん強くなっていき
昔の振動機能つきコントローラーの故障のようになっていく。
「・・お、おい、どうした?震えてるみたいに見えるが大丈夫か?」
「いえ・・その、正直に申し上げますと、動悸が激しくて、胸が爆発四散しそうです」
「はぁ!?お前・・!今まであれだけやらかしといて今さら?!」
「きちんとしたお許しを頂いたという認識で・・急に・・すみ・ませ・・」
おいおい肝心な時になんてヘタレっぷりだと思いはするが
へせべはいたって真剣そのものだ。だからそんな事になるのだろう。
なので千十郎は仕方なしに本格的にガタガタし出した手を1つ取って
その手の平に指で人という字を書き。
「口あけろ。あの形だ」
「・・あ」
「よし、飲め。腹にまで入れろ」
典型的なおまじないをぽんと口の中に放り込んでやる。
しかし単なるおまじないのそれはなぜか驚くほどに効き
へせべの緊張や震えは数分もしないうちあっさりおさまった。
「どうだ?マシになったか?」
「・・さすがです主。色事以外には何かと博識なご様子」
「それを言われるとどうにも苦いが・・まぁ手段はどうあれ
お前は一生懸命やろうとしてるんだから、それを無下にするわけにもいかんだろう」
それは場合によって敵に塩な話だが、今のへせべにとっては光と砂糖と栄養剤だ。
ぐっと何かをこらえたような顔をしたへせべは自分の胸をぎゅっと掴んでから。
「・・ではそのご好意、しかと頂戴いたします」
緊張で上手くいかなかった行動を再開し、すり寄りながら主の着物に手をかける。
ただ千十郎のいつも着ている着物は何を参考にしたのかわからない
着物のような着物でない、なんちゃって着物もどきだ。
構造がわからず苦労するかと思いきや
へせべはほとんど迷わず手を動かすので不思議に思ったが
そういえば洗濯済みの衣類は大体へせべが綺麗にたたんで持ってきてくれていたので
あぁ、そうかこいつも影で色々と根回し・・じゃない、努力してんだなぁと思っておく。
あとこういった事に手際がいいのは、たぶん着物の構造を地道に観察研究した後
妄想内で何回も剥いだり破いたりして実戦までこぎつけて
ここじゃ書けないような事もろもろを脳内でやってげふんごふん。
だがそうして金具をはずしたりゆるめたりして
これで脱がせられるという段階になってへせべはなぜか手を止めた。
「?もういいのか?」
「はい。全て取り払ってしまうよりもある程度残っていた方が艶やかさが増すかと思いまして」
「あぁああ、もうお前口開くとロクな発言しかしない奴になってる!」
「ではこれより以後無言で統一いたしましょうか」
「・・・それはそれで怖いから困る」
「ご注文の多い主ですね」
「うっさい察しろ!」
強気の中に少しの怯えを押し込んで怒鳴る主を笑顔でかわし
へせべは体重をかけないように注意しながら覆いかぶさって胸板に耳をつける。
普段の鼓動がどのくらいの速さなのかわからないが
いくらか忙しそうな鼓動がちゃんと伝わってきて
へせべが静かに小さな安堵と優越感にひたっていると当の主が困ったように聞いてきた。
「・・しかし、前から不思議に思ってたんだが
こんな若さも色気もへったくれもないおっさん相手で楽しいか?」
「いえ実のところそれほどあまり」
「んだとコラオマエ」
「というのは半分は冗談です。もちろん普段から年輩や年上の男性に
恋焦がれ欲情するほどの感情は持ち合わせておりません。ただ・・」
くつろげていた首元に指をあて、上にすうと這わせてくすぐったそうに逃げる頬を追いかけて撫でながらへせべはまっすぐ主を見て、でもここではないどこかを見るような目をして話し出した。
「主の場合はまったくの別、というのが解答になるかと思います。
たとえば先程のようなお気遣いであったり、時折頂ける褒美(なでなで)であったり
このような要求を受け入れて下さる寛大なお心や慈愛の精神。
加えて悪戯行為に困惑して身悶えするお姿やその時の切羽詰ったお声など
目もくらむばかりの高揚感と幸福感に満たされてもう・・本当に、たまらなく・・」
「ぐ・・・わ、わかった、わかったから!
想像だけでどこか遠くへ飛ばないで戻ってきなさい!」
「・・・あぁ、これは失礼を。
そう・・ですね。目の前に準備万端の主が転がっているというのに
(ピー)に(ピー)た(ピピー)の(ピピブー)を楽しむのも無粋というもの」
「おおぉおい!へせべ君オブラートぉ!!」
さすがに早まったかと後悔しだした主をよそに
重すぎず暑苦しくもない絶妙の力加減でへせべが寄り添ってきた。
「ですので今回の件、主のご好意に甘えてしまう事になりますので
全責任はこのへせべにあります。・・という立前の元に
たまには自分を甘やかすことも大事、で、よいのですね?」
「・・う・・う〜んむ、まぁ、それはそうなんだろうが
そこにわしを豪快に巻き込むのはどうにかならんかったのかと・・」
「そうご心配なさらずとも、初回から泣いて許しを請うような事はいたしませんので」
「ってことは脳内ではしてたんだな?」
するとへせべは数秒固まった後、ちらっと一瞬だけ目をそらした。図星らしい。
「・・先に言っとくが、こっちは完全初回のド素人なんだからな。
妄想と現実の区別はしっかりつけてくれよ」
「現実の主は現実的なのですね・・」
「当たり前だろが。お前の頭の中のわしはどんだけ脚色されて
・・いや、もうよそう。不毛だ」
「そうですね。こうして主と二人きりで取り留めのないお話をするのも楽しいのですが・・」
ふいに近づいてきた端整な顔に驚いてぎゅっと目をつむると
軽くどかされた前髪の近くでちゅうという小さい音がする。
うひぃとひるむ主をよそに、その音は目じりや鼻先、頬などを点々と移動して
まぶたの上で少し居座ったあと名残惜しそうに離れた。
「主より頂戴したせっかくの機会と寛大なご厚意。存分に活用させていただきます。
・・贅沢を言えた義理ではありませんが、よい声で鳴いて下さると幸いです」
ホンッットになんて贅沢だ!と思った次の瞬間、ばくりと首に噛み付かれた。
だた歯はまったく立てられず唇と舌の暖かい感触だけがぞろりと首筋をおりていき
喉の奥から『ひっぎ』というおかしな声が勝手に漏れたが
そのヒキガエルみたいな声が気に入ったのか、へせべはさらに下へ移動するのをやめて声の上がった所を再度舐めたり口付けたり指先でくすぐってきたりする。
「ひぇ、ちょ、・・ま!まて、そこばっか!り!」
いやがって逃げようとするのもお構いなしにへせべはしばらくそこを堪能し
次に胸元にひっかかっていた着物をくわえて半分くらい引きおろした。
戦わない身にしては厚めの胸板は当然女性のそれとはまったく別物で
柔らかくもないし豊満でもないが、へせべはまったくかまわず
何を思ったのかその中心にべちゃと音がする勢いで頬からダイブした。
『ぐえ』という変な声がしたが気にしない。当たり前のように硬かったがかまわない。
なにせあらゆる意味で愛してやまない主の胸板だ。
男だとか女だとか硬いとか柔らかいとか匂いがするとかしないとか、そんなものは取るに足らないただの記号のようなものだ。
・・あぁ、それにしてもあたたかい。
外も内も爪の先から髪の先まで心身をこんなにあたためてくれるものが存在していいのか。
しみじみとそう思いながら頬をすりすりこすりつけていると
頭にぽんぽんと二度、撫でるようなあやすような感触がきて
じんわりとしたあたたかさが燃え広がるような勢いで全身に行き渡る。
それはあまりに心地よく、このまま眠ってしまいたくなるが
へせべは自分の顔面を蹴りとばすくらいの気力をもってその誘惑を振り払い
わざと残した着物の中へ手をゆっくり進入させた。
「・・・ぅ・・」
頭の上にあった手が止まり、困ったようなうめき声がする。
そういった事をされるのは今回が初めてではないが、それと慣れるというのは別問題だ。
着物の下を自分の温度ではない手がするすると這い回り
たまに様子を探るように、時には感触を楽しむように止まりながら
あちこちへ移動してはたまに悪戯をするようにくすぐりながらそこかしこへ移動する。
おまけにそれは全部見えない所でやられているため
次に何をされるかまったく予想がつかず、息と熱が勝手にあがる。
へせべは元々主が好きだが、この初々しい所はさらに好きだ。
特に太ももの内側をゆっくり撫でるとぎゅっと目を閉じて
拒むか逃げるか迷うように身をよじるのがたまらなく愛しい。
至福だ。実に至福だ。この一瞬一秒記憶しても記憶しても追いつかない。
あれもこれも脳裏に焼き付けておきたい主ばかりで記憶容量が足りるか心配になってくる。
いや、記憶してみせる。たとえ他の全てに上書きしたとしても。
などという真面目なようでまったくよろしくない助平根性を新たに
へせべは急に身を離し、いつもぴっちり閉めている首元を少し荒い動作でゆるめながら。
「・・主は、わかっておられない。こんな素直な反応をして
こんな声を上げる方に、欲情しない方がどうかしている」
などと言って着物をかき分け、出てきた脇腹に獣のようにかぶりついた。
しかも今度は少しだけ歯を立ててだ。
「あっつ!?」
それはそう強くはなかったが、さすがにそんな所を噛まれた事はないので
びくりしとした身体は衣擦れの音をさせてへせべを押し返そうとしてくる。
だがもちろんへせべは引かず、押し返してくる手をものともせず歯形を残したり舐めたり口付けたり、さらに手を回して反対側の同じ部分を爪を立てないように引っかいたり撫でたりする。
「うぁ!い、・・っ!」
押し返す手がゆるんだらへせべの勝ちだ。
そのまま胸の下や腹の真ん中に口付けと甘噛みを落としながら
時々来る抵抗をあやすようにかわして抵抗がゆるむのを待つ。
そうしながら見るその表情は、誰が何といおうとへせべにとっては至高の甘露だ。
「い、くぅ・・!ッこ、っら!い、い加減にっ・・!」
「・・はい。ここにおります」
もがく主にへせべはやんわりと抱きついてなだめるが
会話の内容的には人の話を聞かないアカン人状態だ。
・・おうおう、幸せそうで何よりだなぁさわやか助平め。
でもちょっと人の話聞いて手を緩めてくれると助かるんだがなぁ。
主のわずかに残った冷静な部分がそんな愚痴をこぼすのをよそに
ひいひい言って逃げる主とそれを巧みに封じてさらに攻めるへせべとの攻防が続く。
が、元々不慣れな上に体力のない主が早々に待ったをかけてきた。
「・・ちょ、ちょ・・っ、まて・・待ってくれ・・!息が、もたん!」
「かまいません。むしろ息も絶え絶えな主も実に魅惑的で・・」
「・・ダメ!待て!休憩、させろ!」
さらに迫って来ようとするへせべの顔面を力づくで押しのけ
ごろりと横になってどうにか息を整えようとするが
それは今のへせべからすればいい匂いをぷんぷんさせて
皿の上に綺麗に盛り付けて用意された肉のようなものだ。
へせべは無意識にすうと鼻から息を吸い込み
ぐったりしている主に気付かれないよう、そっと後から近づいてそのうなじの匂いをかいだ。
麻、綿、土壁、汗、木、古びた書物
どれが主の匂いかわからないが、へせべはそのままその匂いにつられるように
黙って耳の後ろに口付け
「ッ!!?」
た途端、跳ねるような動きで主がこちらを向く。
見ると耳を押さえてこちらを見る主の顔はほぼ涙目だ。
その瞬間、へせべの顔がぱぁと明るくなり
それとは対照的に千十郎の顔が青ざめる。
「当たりか!」
「ふんぎぇ!?」
咄嗟に逃げようとしたその動きは
嬉々として飛びかかってきたへせべに身体ごと押さえつけられ阻止される。
相変わらず悲鳴に色気も何もないが、へせべはまったくかまわない。
というかそれどころでなない。
今まで色々な所を探ってきたが、まさかこんな簡単な箇所が弱いとは。
完全な見落としだ。だが今見つけられたのならそれでも十分。
「お、おい!待てって!必要ないだろ?!
そんなとこどうこうしたって何の意味ッひ!?」
もがいてどうにか言い訳をひり出そうとする主にかまわず
その耳たぶを優しく口で捕まえると、逃げようとしていた動きがぴたりと止まった。
やはり弱い部分だったらしい。ならばそこを攻めない理由はない。
浅い穴に逃げ込んだウサギを物色するオオカミのような気分で
へせべはそのまま薄くかすめるように耳まわりに舌を這わせる。
「ひ、ッ・・ぁ、・・ふッ・・!ぅ・・うぅ〜・・!」
押さえ込んだ身体が震え、にじみ出るような声が漏れる。
その顔を見ることは出来なかったがへせべは満足そうにすうと息を吸い
少しづつ少しづつ触れる範囲を広げていく。
それは千十郎からすれば完全に視界外からの行動で
感触でしか何をしているのかわからなかったが
動くたびふわりと迫ってくるような熱と少し荒くなってきた息づかいで
へせべが興奮しているのだけはなんとなしに伝わってくる。
そしてその息づかいが急に近づいてきたかと思うと
耳たぶがぬるりと何か暖かい場所に吸い込まれ
ちゅ、ちゅるという音が恐ろしく間近から流れ込んできた。
「や、こらッ、よ・・せ!・・ぁ!」
おまけにくしゃくしゃに乱された着物の隙間から入った手がさらに奥まで入りこみ
じわじわと追い込んでくるので怒鳴ろうとしたことが散り散りになる。
「・・ふぁ!あ、う、・・、あっ、く、ぅ・・!」
「・・主」
しかもそれだけでは飽き足らず、ため息のような声が間近でしたかと思うと
耳元で動き回っていた水音がずっ、というかなり強めの音と一緒に
直接耳の中に入り込んできた。
「・・が、ッあ!!」
千十郎は目を見開き無意識で逃げ出そうともがくが
身体をしっかり抱き込まれた上に顔をいつの間にか固定されていて動けない。
唯一残っていた片手はどうしていいかわからずふらふらと彷徨い
敷いていた麻袋を軽く引っかいたあと、優しく捕獲されて上からゆるく握りこまれた。
ずる ずっ ぐちゅ
「・・あ・・・あ、ッぁ!」
脳に直接流れてくるような湿った音に混乱し、声と息が勝手にあがる。
どうしていいかわからないし息はあがるし逃げたくても逃げられないし、おまけに視界が勝手にぼやけてくるし、もう何が、ほんとうに、どうなってるのやら。
かろうじて残った意識のすみでそう思っていると
目のはじから何かがぽろっとこぼれ落ちた感触がする。
あれ、なんだこれと思っていると
ふいに密着していた体温が離れ、身体をころんと仰向けに変えられる。
まず見えたのはへせべの顔で、その顔がこちらを見て何やら見たこともない表情をしていた。
何だ。何でそんな顔してるんだとぼんやり思っていると
へせべの手が軽く目の下をぬぐってきて。
「・・あぁ、何という、何ということか・・」
何を感慨深げにつぶやいているのかわからないが
そんなあらゆる嬉しさの入り混じった顔で見ないで欲しいなと思っていると
今度はさっきと反対方向にころりと転がされ、同じような体勢に固定される。
ん?これもしかして、と思ったらそのまさかだった。
「お気に召したのなら、こちら側も同じく同じように
・・いえ、もっとじっくり丁寧に、もっと高みへ昇れるように・・」
り、律儀の皮をかぶった陰湿野郎ー!
と思ってみてももう大体色々と遅い。
直後、無事だったもう片耳は宣言通りじっくり丁寧に舐めるように食べられ
さっきよりも執拗かつ遠慮のない動きで耳の内外をいじくり回されるハメになった。
こうした関係を望んだ最初のころ、早めに慣れてほしいと言ったのは自分だが
それは今思えば自分に対しての言葉だったのではないかとへせべは思う。
少しづつでも自制に慣れていかなければ、何かの弾みで我を忘れて
本当に抱き殺しそうなほどこのひと時は甘く芳醇だ。
まさかあの時冗談半分で言ったつもりの台詞が
そのまま自分に跳ね返ってくることになろうとはな。
そしてこの慣れない行為に困惑して情けない声を出す主は
可愛いというか愛おしいというかもっと追い込んで泣かせてみたくなるというか
とにかく頭の奥をぼうっとさせる何かの薬のようで困ったものだとへせべは思う。
だがいい。実にいい。
こんな場所で事を運ぶのは品も風情もないかと思ったが
主がここにいてこうして自分の手で身悶えていくという事実は
そこがどこであろうと至上の空間になるとへせべは静かに感動する。
「ッも・・う、よ・せ、へせべって!・・う、や、ふぁ・・う!」
知識はあれども経験のほとんどない千十郎が悪いのか
へせべの手際がよすぎるのが悪いのかわからないが
ともかくくしゃくしゃの着物の中で息を切らせ、途切れた声を上げる主の姿に
へせべは恍惚とした様子でため息をもらし、その手を引いて自分の手と絡ませた。
「私は今まで、自分の名があまり好きではありませんでしたが・・」
浅い息をくり返し、軽く震えているようなその手の感触にうっとりしながら。
「今貴方にその声色で呼ばれる事の、なんと甘美な事か・・あぁもう、本当に・・」
その言葉に返事はない。
そのかわり空いていたもう片方の手が何かを探すようにふらふらと動き
こちらの服に到達してすがりつくようにぎゅうと握りしめてくる。
感無量とはこのことか。
自分の中で何かがぶうわと膨張し、その中が何か暖かいもので満たされていくような感覚にへせべは心の底からの笑みをうかべてその手をとって指一本づつに丁寧に口付けた。
だがこのひと時は確かに至福の時間だが、実はそれほど浸っている時間がない。
いくら加減をしたとしても自称若いやつらに勝てない主のことだ。
いつかのように体力切れですこんと寝てしまわれる可能性もある。
とくに本番真っ最中にそうなりでもしたら悪い意味でたまらない。
もっと色々いじめ倒した・もとい、様々な表情を引き出してみたいところだが
残念ながら時間も主の体力も自分の理性も有限だ。
へせべは意を決してぐったりしている主を仰向けに動かし
だいぶゆるまった袴の紐に手をかける。
それの意味するところはわかったのか、千十郎は少し怯えたように身を引こうとしたが
ぐっと口を噛んで思いとどまったような顔をした。
「・・主、よいのですね」
「・・・」
最終確認のつもりで手を回し、袴ごしに尻を撫でると
目をそらしぎゅっと目をつぶって息をつめるので
へせべはもう色々とたまらくなって撫でる手に少しづつ力を入れ
割れ目に指を押し込むようにしてゆっくり往復させてみる。
「・・・ッ・・ん・・・・ん〜・・!」
あぁ・・やはりいい。
このままいつまでもいつまでもいじめ倒していたい(もう隠すの諦めた)という気持ちを残った理性をかき集めて押さえこみ、へせべはさらに聞いた。
「主」
「ッ聞っくな馬鹿ぁ!!ダメだったらとっくに殴って逃げとるわ!!」
それはもう泣き言みたいな怒鳴り声だったが
へせべはそれを聞いて少し笑い、紐に手をかけてするするとそれを解いていく。
こういった時に強引にこないのは千十郎にとってはありがたいような怖いような
でも一気にやってくれた方が楽なような、ともかく複雑な気分だ。
まず他人に袴をおろされる経験などそうはないし
これからするのだろうあれやこれやの事を考えると
当たり前だが落ち着かないし何より怖い。そして怖い。
ま、どっちにどうすっ転んだところで
わしがひどい目にあう事は確定なんだろうが・・
まぁ・・自分で踏み込んだことだし。死にはしないだろ。
ほどいた紐を律儀にくくって遠くへ置くへせべの手を見ながら
千十郎はもうどうにでもなれという気分になった。
が、その直後、下を脱がそうとしていたへせべの動きがなぜか途中でぴたりと止まる。
「・・・・・・主」
「・・ん?」
「下着はどうされました?」
「・・着けてないが」
「は?」
「だから、着けてないって」
「常時・・・ですか?」
「気が向いたら着けるが・・半々くらいだな」
するとへせべは驚愕の顔をしたまま突然ぐしゃと崩れ落ちた。
え、なにお前ノーパン否定主義者なのと思ったがそうではない。
「・・俺と・・したことが!なんたる失態!
主が下着をつけているか否かを見分けることすらできていないとは・・!」
「・・?え?ちょっとへせべ君?」
「はいていないならはいていないで事前の心構えと準備は考えられただろうに
よりによってこんな直前までわからないとは!何という愚行!
俺は今まで・・!主の何を見ていたのだ!」
「・・あのぅ、へせべ君?何で一人反省会が始まってんの??」
何だかよくわからないが、とりあえず中途半端にはがされた前を隠しながら聞いてみると
へせべは取り返しのつかない大失敗をしたような様子で話し出した。
「・・私は・・・いえ、正直に申し上げます。
私は主の下着を自らの手でじわじわ剥ぎ取り、羞恥にもがくお姿を目に焼き付け
後々思い出して楽しめるよう永遠に記憶しておきたかった」
うぎぃえお前、クッソ真面目な顔でひっでぇカミングアウトを。
という言葉すら吐き出せない千十郎をよそにへせべはさらに続ける。
「ですが下着を着けていないのであれば、また別の前準備も心構えも可能でした。
問題は私が事前に主がどちらの状態であるかを把握していなかった事にあります」
いや把握してたら怖いし、わかったとしてもそれをどう役立てりゃいいんだよと思うが
今のへせべにとってそれはかなりの重要事項であるらしい。
というかそんな話をこんな状況でクソ真面目にしないでほしいが
本人はいたって真剣そのもので実にツッコミにくい。
「・・完全な私の失態です。常日頃から主を目の前にしておきながら
こんな肝心な時に!主の下着の有無を感知できないとは!」
「・・いやそんなもん感知できるのはまず間違いなく変態だけだろ」
「だからこそなのです!もし仮に主が突然通りすがりの蛮族に押し倒されでもしたら
約2.5秒も早く事を進められてしまいます!」
「高確率でおっさんの蛮族って通りすがりにおっさん押し倒してくるのかヤダ怖い。
そしてお前のそのドブをさらうような想像力がさらに怖い」
テンションの上がりすぎで頭のネジか血管でも飛ばしたのかと思うが
ともかくこんな状態でツッコミ漫才するのもむなしすぎるので
千十郎は脱げかかっていた下をちゃんとはき直して聞いてみた。
「だったら今からはいてこようか?下着」
「・・・・・・・・・いや、です」
「は?」
「いやです!せっかくお許し頂いた至高の時間を
主なしで過ごす事など一分一秒一呼吸一瞬たりとていやです!
ここにいて下さいどこにも行かないで下さい視界から消えないで下さい息のかかるところにいて下さい手の届く範囲にいて下さい置いて行かないで下さい!!」
「あ〜・・」
息継ぎもなしにわめいてしがみついて駄々こねだした色男に
千十郎はもうなんともいえない気分になった。
もう今更ながらな気もするが、さっきまでの雰囲気もろもろ綺麗さっぱり台無しだ。
ドラマでしっとりした雰囲気のラブシーン見てたら
急にワクドキどうぶつコーナーが始まったみたいで
怒るにもおかしいしガッカリするにもなんか違う。
あとはき直したとはいえ股の上で駄々こねないでもらいたい。すごく複雑な気分になる。
「・・えと、まぁ、その・・なんだ。とりあえず落ち着け。
どこも行かないから。いてやるから。な?」
「・・・・ほんどうですが?」
「こんなひでぇ顔(と精神状態)の奴を置いてどこか行けるかっての。
ほら、とりあえず鼻をかめ。男前台無しだ、片方づつ」
かろうじて残っていた手持ちの布で鼻をかませ、着物のきれいな部分で顔を拭いてやる。
「とにかく下着がどうのってのはもういいから、今日のところは寝ちまえ。
ついててやるから」
「・・しがし・・・主は良いのですか?」
何をとは言われなかったが意味は大体わかる。
こんな時にもこちらの心配ができるなら上出来だと思いつつ。
「わしはそっちの欲は薄いからな。
いいから寝ろ。寝て起きて、その時また考えりゃいい」
水にぬれたチワワの3倍くらい情けない顔をするへせべの肩を押し
自分の横にぼすんと倒してその額をあやすように撫でる。
「今日がダメなら明日がある。明日がダメならその次だ。
生きてさえいりゃどうにだってなる。要は立って歩く気があるかどうかだ。
お前はかしこいから、そのへん理解あるだろ?」
するとへせべはずずーと鼻をすすってしばらく沈黙した後。
「・・・主」
「ん?」
「胸をお借りしても・・よろしいでしょうか」
「・・んー・・ちょっと待てよ」
裸だとさすがになんなので、くしゃくしゃで放置されていた上着類を軽く羽織り
ほれと腕を広げてやると、さすがに何もせず大人しくもぞもぞと抱きついてくる。
子供なのか大人なのかエ●い意味での大人なのか。
ともかくやたらと幅の広い奴だなぁと思いつつその背中をぽんぽんしていると
そう時間もたたないうちに静かな寝息が聞こえてきて少しばかりほっとする。
それにしても、せっかくの最初が下着の有無でお流れになるとは
良かったのか悪かったのか、彼史上に嫌でも残る暗黒ドブ歴史になるのか。
・・最後のやつな気がものすごくするが、しかしどう取るかはへせべ次第だし
わしが考えても仕方ない。ともかくちゃんと眠れたなら問題ないだろ。
などと早々に考えるのを放棄した千十郎は
へせべの頭を撫でながら少し疲れたように目を閉じた。
そして次の朝。
主が自室にいない事に気付いたまんばがそこらじゅうを探し回っていると
その主がなぜか庭先から、しかもへせべに肩を貸しながらひょっこり現れた。
それはどう見ても朝帰りのそれだったので、まんばは即座に声をかけようとした
のだが・・。
「・・あれだけの機会があったにもかかわらずおめおめと惰眠を貪るだけに終わるなどと寝たという言葉的には成功かのように思えるが全くもっての大不発かつ大失態と言わずして何といういや行き当たりばったりなのが悪かったのかそのくせ史上最高の寝心地に先に起きて寝顔を拝見する事すら失念する始末これ以上の醜態がこの先あるというのか前回しかり今回しかり二度あることは三度あるとすれば俺は一体どれだけの首が必要になるのかそもそも運に恵まれているのかいないのか三度目があってそこでまた不測の事態があるとすればもう天がもう俺に諦めろと言っている同じなのかそれとも俺には運を取りこぼす才能でもあるのか緻密な計画を立てたとしてもそれを上回る不測の事態が俺と主の間に立ちはだかるのかむしろ技巧無用の強行手段で打って出ろとでも言うのかそれでも不運が舞い降りてくるというのならもうそれは神の領域しかしそれでも・・」
などというほとんど息継ぎなしの独り言を
死んだフナみたいな顔をしたへせべが延々ぶつぶつつぶやいているものだから
さすがにまんばも声をかけられず、おまけに千十郎も苦笑いをするだけなので
これはおそらくへせべの思うようにはいかなかったのだろう。
これ以上ないくらいの悪い形で。
なのでその夜の件。誤解されはしたがすぐに誤解が解けるというちょっと珍しい事例になり、それから数日間、怖さといくらかの同情込みで誰もへせべに話しかける事ができなかったとか。
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