その時彼は真っ暗な場所にいた。
それは彼にとってはあまり珍しいことではない。
ただいくつか違うのは・・手足の感覚があって視覚がハッキリしている事。
そしてそんな視覚の中、自分から少し離れた所に
何かが転がっているのが見えることだ。
彼はそれに歩み寄った。
それは暗くて明かりもないはずなのにハッキリと見えている人間。
・・いや、元人間だったものだ。
白い肌に金色の髪。
無造作に落ちているかのようなそれは彼のよく知る光景。
忘れたくても忘れられない・・いや忘れてはいけない光景だ。
そこから赤い物がしみ出し、トロトロと自分の足元まで流れてくる。
その赤はすこしづつ自分の足元に溜まっていき
やがて足元に鏡を作るかのように丸く大きくなっていく。
その時彼は気がついた。
自分の足が人の物ではない事に。
やがてそれは全身が見えるほどの大きさになった。
赤い鏡にうつったのは自分の知らない
大きくて鎧のようでツノを生やした・・・
「
!!」
目を無理矢理開けたのと身体が跳ねたのはほぼ同時だった。
息がつらいほどに心臓が跳ね、身に覚えもないのに全身から汗が噴き出す。
まず目に飛び込んできたのは小さくともされたオレンジの明かり。
次に近くにあった洋服ダンス。
素早く周囲に目を走らせるとそこは先程の場所ではなかった。
そうだ。ここは最近自分がすごすようになった場所で現実の世界だ。
・・・夢・・・か・・・。
音が出ていそうな心臓を上から押さえ、バージルはため息を1つついた。
今まで見なかったわけではないが
悪夢に叩き起こされたのは随分と久しぶりだ。
内容は・・・冷静になってみればほとんど覚えていない。
夢というのはそんなものだ。
だがそんなものに惑わされるとは彼にしてはとても珍しい事で・・
「・・・バージルさん?」
声と共にパチンと小さな音がし
周囲が急に明るくなってバージルはぎょっとした。
見ると最近そばにいる事が多くなった少年が
ベットから起き上がって照明のヒモを片手にこちらを見ている。
バージルは一瞬しまったというような顔をして素早く布団の中に潜り込んだ。
それはあまり心配されたくないというのと
悪い夢を見て飛び起きたのが格好悪かったというのが理由だが
そんな事をすればさらに逆効果になるのを彼は知らない。
「・・バージルさん?どうしたんですか?」
ベットをおりてきた足音が近くまで来て布団を軽く押してくる。
「・・バージルさん、バージルさんってば」
「・・・・・・何でもない」
「何でもなくないでしょう。汗びっしょりだし顔色悪いし・・」
「・・・何でもない!」
しかしそうでないのはさっきの様子でわかるし
仲魔に関しては色々とカンのきく純矢にごまかしは通用しない。
それは様子からして怖い夢でも見たらしいのだが
さすがに怖い夢見て飛び起きたというのは恥ずかしいのか
バージルはガンとしてそこから出てくる気配を見せなかった。
純矢はどうしようかと少し迷い、とにかく先に水でも持ってこようかと・・
ぱし ごん
立ち上がって歩き出そうとしたところで足首をふん掴まれ
タンスに頭をぶつけた。
「・・いっ・・・て〜・・・」
「・・・ぁ」
さすがに咄嗟だったので頑丈な身でも痛いものは痛く
なにしやがんだとばかりに後を睨むと
ダンテに良く似た顔が少し申し訳なさそうな目で
布団の中からこちらを見上げてくる。
なまじダンテを知っているとそれはちょっと不気味な光景ではあるが
最近ようやく割り切りができるようになった所だし
元々適応力がある純矢はそろそろあまり動じなくなってきた。
「・・・・・あの、ちょっと水・・・取りに行くだけ・・」
そう言うと布団から出ていた手が引っ込んで布団が再び丸くなる。
しかしダンテと同じくやはりサイズの関係で足は出たまんまだ。
何だか複雑な気持ちで部屋を出て、水を持って戻ってくると
それはその状態のままでそこにあった。
戻ってくると少し反応があったのでまだ寝てはいないらしい。
「バージルさん、水持ってきたけど・・・」
そう言うと丸くなっていた布団が動いておずおずと中身が出てくる。
差し出されたコップはちゃんと受け取ってはもらえたが
目は少し赤く顔色もあまりよくない。
「・・・もしかして悪い夢でも見た・・とか?」
なんとなく言ってみた言葉は的中したらしい。
大の大人は一瞬驚いたような顔をし、かなり気まずそうに視線を落とす。
なまじダンテと同じ顔をしているためなんだかとってもヘンな気分だが
純矢はもうこの際気にすることを放棄してバージルの前に座り込んだ。
見た所・・悪い夢を見て飛び起きたのは確実らしいが
なんでもないと言い切られてしまうと理由を聞くにも気が引ける。
ではどうするべきなのだろう。
当然ながら育児や介護の経験などまったくないので
夜中に起きた人間の寝かしつけ方など知るはずもない。
純矢は水を飲み終えてこちらを見ているバージルの前で
腕を組んでしばらく考えた。
こういった場合は自分の母の経験を生かせばいいのだが
生憎純矢の母はかなり小さいときに他界しているのでそういった記憶もない。
しかしどうしてダンテにしろこの兄にしろ
この伝説の血縁者というのはやたら人様を困らせるのに秀でているのか・・・。
「・・いや、今考えるのはそこじゃなくて」
1人して虚空にツッコミを入れ、純矢は少し考えた後まずこう切り出してみた。
「あの・・バージルさん、もしかして俺にまだ話してない事とか
言いたくても言えないこととか溜めてませんか?」
その何気なく言った言葉にぼんやりとしていた顔がピクリと反応を見せる。
「いや・・違ってたら別にいいんですけど・・
ただ・・俺もちょっと似たような時期があったから
そうじゃないかなって思っただけで・・・」
バージルは心の中で息をのんだ。
それは両方とも当たっているからだ。
それは彼がずっと前に封印した
いや忘れていたとも言える1つの言葉と感情だ。
それがどうして今頃になって出てきたのかは、少し考えればすぐにわかる。
ここがあまりに暖か過ぎるからだ。
ここは戦いというものが存在せず、ただ生存するにも不自由しない
自分が力に執着する前の、つまり母のいたころの環境と似ているからだ。
だから今頃になって悪い夢を見たり、それを恐ろしく感じたりするのだろう。
少し前の自分なら、そんな無駄な事を拾うような
人らしい感情の一かけらもなかった・・いや自分で捨てたつもりだったはずだ。
それともう一つ、自分で選んだ事とは言え人の世界から離れていた分
自分の中に残っていた人の部分がここへ来て逆流してきたのかも知れない。
バージルは急に不安になった。
だとすると・・自分はこれからどうなるのだろう。
これは夢ではなく現実だ。
目を覚ます事もできなければ逃げることもできない。
自分は今その中にいて今までに捨てたはずのものに追われようとしている。
バージルは怖くなった。
怖さを感じることに怖くなった。
怖くてたまらないけれどそれをどうしていいのかは今の彼には分からない。
力の弱体化は努力で補えばどうにかなる。
だが生憎精神が弱体化した時の対応法など
今までそんなことを考えもしなかった彼の中には存在しない。
無意識に自分の腕が自分を抱こうとする。
怖いのか?
この俺が?
なくす物などもうないと思っていた俺が?
『違う』
頭の中で小さな警報が鳴る。
『いやそれも違う』
けれどそれと同時に別のどこかで違う警告がささやかれる。
言ってはダメだ。
しかし言わなければ俺はまた俺でいられなくなる。
今までの俺を否定する気か?
だが俺にはまだ選択権が残っている。
俺にはもうそれは残っていない。
ならばどうして俺は今ここにいる?
頑なに今までの自分を守ろうとする部分と
今まで溜まった何かを静かに吐き出そうとしている部分が
頭の中でぐるぐる混ざり合う。
完全に動きの止まってしまったバージルに純矢は首をかしげた。
だがその時、丁度玄関の方で戸の開く音がして
誰かが帰ってきたのかと思い、純矢がバージルから目をそらしたその時
ギリ
「え?」
何かを掴むような音がして視線を元に戻すと
ついさっきまでぼんやりしていたはずの魔人は
顔面蒼白のまま全身から汗を吹き出し、下にあったシーツを掴んだまま
何か見えないものを見ているような目をしていて・・
「・・・バージルさん?」
異常に気付いて名を呼ぶと
その口からはいきなり嗚咽とも絶叫ともとれない声が漏れ出した。
「・・・が・・・・あ・・・あああぁあああ!!!」
それはパニックになった時とは違う恐れと迷いの入り交じった声。
まるで今しがた自分の凄惨な死に際でも見たかのような声を上げ
バージルは頭を抱えて丸くなった。
「ちょ・・っ!バージルさん!?大丈夫!?」
しかしその声すら聞こえていないのか
バージルは丸くなったまま絶叫に近いうなり声をたてて頭を抱えるばかり。
その声はどうやら玄関まで聞こえたらしい。
かなり急ぐような足音がだだだだと階段を駆け上がって来て
ノックもなしにばんと部屋の扉が開く。
「主!!何事だ!?」
会社カバン片手に飛び込んできたのはミカエルだ。
純矢はそれを皮切りに冷静さを呼び戻され
暴れるバージルを押さえつけて素早く指示を飛ばした。
「ミカ!結界!!バージルさんが・・!!」
「!・・承知!!」
そのただならない様子にミカエルは一瞬たじろぐが
次の瞬間素早く槍を元の形に戻すと
刃のついていない方を下にしてだんと地面に突き立てる。
その途端そこを中心として空気が変わり、外の音が聞こえなくなる。
これで多少の騒ぎも外に漏れず部屋も破壊はされないだろうが
何しろ相手はまだ再生後間もないとは言え
悪魔の中ではかなり強力な部類になる魔人だ。
ミカエルは槍を突き立てた手とは反対の手をバージルに突き付け
素早くランダマイザを詠唱し、何かから逃れるように暴れるバージルを
純矢と一緒になって押さえつける。
「一体何があった主?!」
「わからない!話をしてたら急に怯えだして・・!」
などと言う間にも純矢の押さえつけていた腕が地をがりがり掻く。
なんだ?何を探してる?何をそんなに怯えてるんだ?
何が言いたい?どうしてそんなに必死なんだ?
だがどれをとっても純矢に今分かることは1つもない。
しかしたとえ何も分からなかったとしても
純矢は目の前の仲魔を見捨てることは絶対にしない。
地面を掻いて逃れようとしていた手を押さえつけ
ちょっとゴメンと思いつつも後から馬乗りに乗っかって髪を掴むと
その耳元に向かって怒鳴る。
「バージルさん!!俺はここ!ここにいるから!
とにかく戻っておいで!こっちだ!ここ!」
一回り大きい手の指に自分の指を入れてぎゅうと掴む。
純矢の起こした行動のどれが効果的だったのかは分からないが
しばらくうなり声を上げ2人がかりで押さえつけられながら
何かから逃げるようにじたばたしていたバージルは
その瞬間いきなりふっと、火が消えたかのように大人しくなった。
そしてそれからしばらく妙な沈黙が続き、掴んでいた手が二度ほど床を叩く。
もう大丈夫だからどいてくれと言っているらしい。
純矢とミカエルは顔を見合わせると、ゆっくりバージルの上からどいた。
バージルはしばらく轢かれたカエルみたいな体勢のまま動かなかったが
やがて自分からゆっくりと身を起こし、ため息を吐き出しながら汗をぬぐう。
そこでようやくホッとするのと同時に純矢は考えた。
さて、この場合一体どうしたのか聞いて良いものだろうか。
あれだけ錯乱していたのなら聞いても分からない可能性も高いし
聞いたら聞いたでまた錯乱する可能性も高い。
どうしようかとミカエルに視線をやると
少し難しい顔をした後にぽんと肩をたたかれる。
主の思う通りにするといい・・と言うことらしい。
純矢はしばらく首を右に左にひねって考え込んだ末に
「・・あのさバージルさん、何を怖がってるのかは分からないけど・・」
自分の経験を元にした推測を込めてある1つの話を始めた。
「前はどうだったか知らないけど・・バージルさんは今1人じゃないんだよ」
疲れたように下を見ていた目がはっとしたようにこちらを見る。
その様子では純矢の推測は大体あっているのだろう。
「不注意だったにしろ俺の仲魔の中に入っちゃったんだから
あんまり1人で抱え込まないで、少しは俺やみんなに吐き出してほしい。
すぐには無理かもしれないけど・・でも少しづつでもいいからさ。
何か悩んでる事とか困ってる事とか、不安な事とか話してほしい。
俺も色々とあったけど、そうしてここまでやってきたから
だから・・バージルさんもそうするとちょっとは楽になれると思うんだ」
後でミカエルがうむとうなずいている中、純矢はさらにこうも付け加えた。
「と・・言っても俺はどっちかって言うとみんなに助けられてばっかりで
あんまり頼りにならないかもしれないけど・・
でも・・そばにいてあげる事くらいは・・できるからさ」
だから怖がらないで。
俺はここにいるから。
自分がどうなるか分からなくても
帰ってくる場所くらいにならなってあげられるから。
だが頼りにならないとは言ったものの
それは道を見失った者にとってどれだけの救いになり
どれだけの安堵をもたらす事になるか
彼はきっと分かって言っていない。
けれどその直後からすっと、まるで潮が引いていくかのように
今までバージルの心の中にあった渦や葛藤が引いていき
苦しかった息が急激に楽になり、わけもわからず出ていた冷や汗も止まる。
そしてそう意識した直後、自分の意思でない範囲で口が動いた。
「・・母さん」
そしてそこからこぼれ落ちたのは
彼がずっとしまい込んでいた1つの言葉。
「・・・助けて・・・くれ」
いくら昔の話とは言え、そうするべきは俺の方だった。
あの時母さんを助けるべきだったのは
力ある悪魔の血を引いている俺の方だったのに
だから俺は強くなることを心に刻んできたというのに。
だがなぜだろう。
力をつけて強くなったはずの俺が
どうして今頃こんな事を言いたくなるのだろう。
助けを必要としないがために力を求めた自分が
こんなことを言うのはどう考えてもおかしいのに。
どうしてだろう。なぜだろう。
そう思いはするが実の所、バージルはその一言を口にした時点で
なんだかもうそんな事などどうでもよくなっていた。
それは経験したことのない不思議な感覚だ。
こんな気持ちになったことはあまりないので分からないが
これはきっと・・・吹っ切れたという事なのだろう。
そして目の前の少年は、ほんの少し目を丸くした後
「・・よし、わかった」
まるでそれが当たり前だと言わんばかりに
「おいで」
両手を軽く広げて、彼の場所を作ってくれた。
ごく普通に。当たり前のように。
迷うことなくためらいもなしにだ。
表向きにはそうは見えなかったが
バージルはその瞬間、自分の中にあった色々なものを
音もなく壊されたような気分になる。
心のどこかでぼんやりそう感じていると
なぜか突然かぁと音が出そうなほど目が熱くなり
視界が急激にぼやけ始めた。
そしてその視界の中にいた少年がびっくりしたような顔をしたかと思うと
頬を何かが1つつたって落ちる感触が伝わってくる。
「あ・・・・えっと・・・ミカ、ティッシュ取って」
なんだろうと思っていると、テッシュが2枚ほど目に押しつけられた。
何だ?何をしている?と思ったが
その症状を総合してよくよく推理してみると
そこでようやく自分が泣いているのだとわかった。
そう自覚したのと同時に目が今までの倍くらいに熱くなり
鼻もなんだかぐずぐずし始め、頬をつたう水の量も急激にその量を増す。
「うわダメだ!ミカ!タオル持ってきてくれ!!」
近くに鏡がないので分からないが、えらく慌てたような純矢の様子から
自分はそこそこひどい泣き方をしているらしい。
でもバージルはもう何だかどうでもよくなっていた。
布団の上にぼたぼた涙だか鼻水だかどっちかわからないようなシミができても
自分の喉からもれる声がこれ以上ないくらい情けないものだったりしても
なんだかもう、どれもがどうでもよくなってしまっていた。
「うぐ・・・ふ・・ぐず・・」
「よしよしよしよし、大丈夫大丈夫。よく言えたな。うん、偉いぞ。
だからその・・あんまり・・えぇい、もういいや!好きなだけ泣けこの!」
あんまり地味に激しく泣くもんだから
膝の上がしっとりじっとりなんだか凄い事になっていくが
もう後で洗濯すればいい話だとばかりに純矢はあきらめ
丸くなっている自分より広い背中をごしごしちょっと強めに撫でてやった。
「・・なぁミカ」
「?」
「悪いことしたな」
目が覚めて最初に彼が泣いた時と同じような体勢のまま
純矢はその白い頭を撫で、横で大量のテッシュを片付けていた
ミカエルにぽつりともらす。
「この人、本当は・・・起こしちゃいけなかったのかもしれない。
何も知らないまま、気付かないまま眠ってた方が
こんな思いもしなくてすんだのかもしれない」
しかしミカエルはゴミ箱の中身をぎゅうと押し込み
それを元の位置に戻しながら首を振った。
「それは主の判断する所ではない。
それはこやつがこれから生きていく中、自らの意思で決める事だ」
「・・そうかな」
「そうだ」
そのキッパリ断言するような言い方に
同情のたぐいは一切込められてはいなかったので
純矢は少しだけ気が軽くなった。
きっとこの魔人は、こうやって誰かにしがみついて大泣きするような時期を
成長の途中でなくしたかどこかへ置いてきたかしたのだろう。
だから行動が唐突だったり子供じみていたり
大人のくせに真顔でこんな事をしたりするのだろう。
それが良いことなのか悪いことなのかは
彼の事をまだまったく知らない自分が判断できる事ではない。
純矢はそんな大人なのか子供帰りしたのか分からない
大人の頭を起こさないようにそっと撫でた。
「でも・・実は言うと俺としては
バージルさんと会えてちょっとホッとしてる所があるんだよ」
「?」
「俺・・あの世界で結局誰も助けられなかったけど・・
俺は戦って敵を排除する以外に、まだ誰かの手を引いてやる事ができる。
まだちゃんとした助けになるかどうかは分からないけど・・
まだ俺は・・・誰かに手を差し出す事ができる」
そう言って見下ろした細い手は、あらゆる悪魔を倒す事ができても
あの砂の世界で誰の手をも引き上げる事はできなかった。
「だからさ、バージルさんには悪いかも知れないけど・・
俺としては・・ちょっと嬉しい」
そう言って無責任だよなと少年は苦笑する。
あの孤独で殺伐とした世界に突然1人で放り出されたこの少年は
自分の言いたかった事もほとんど言わず、まだそんなことを考えていたらしい。
ミカエルはこれ以上ないくらいに眉間に溝を作ったが
何か言いかけた口は閉じたままで抗議はしなかった。
だってその時、自分より大きな背中を撫でていた少年が
あまりに優しそうな顔をしていたので言うに言えなかったからだ。
・・・馬鹿な事を。
口から出かかったその言葉をミカエルはぐっと飲み込んで
押入から新しく出した布団を2人にかけてやった。
「・・とにかくもう寝ろ。
明日は休みとは言えども起きる時間は変わらんのだろう」
などと言いつつぼすぼすと寒くないように
布団の隙間を律儀にふさぐミカエルに純矢は笑った。
「ミカ・・・父さんみたいだな」
その言葉をうけて照明のヒモに手を伸ばしていた大天使の手が
見事なほどにすかっと宙をきる。
「・・ッ・・いいからもう寝ろ!」
「はぁい」
ヤケクソ気味に明かりが消され、部屋が暗くなる。
それを見届けてからミカエルは部屋を出ようとしたが
「あ・・なぁミカ」
「・・今度は何だ」
「俺・・みんなに助けられてばっかりで、1人じゃ全然頼りにならなくて
結局・・・誰も助けられなかったけど・・」
振り返った背中にかけられた言葉は少し眠そうなもので
「せめて1人くらいは・・・助けたいなぁ・・・」
それでいて、少し切なそうな物言いだった。
ミカエルはしばらく戸口で硬直した後
何を思ったのか再び部屋の中へズカズカと引き返し
ものも言わずに純矢の手をむんずと掴むとそれを両手で握りしめた。
「・・・・・・馬鹿な事を」
さっき我慢していた言葉が腹の底から漏れてしまうが
暗い中で少年は少し笑ったような気配をさせる。
そしてミカエルはしばらくして手を離し
無言で立ち上がって静かに部屋を出て、後手で静かに扉を閉めた。
・・・・馬鹿な事を。馬鹿な事を。何を馬鹿な事を!!
だがその心の中はそんな言葉で埋め尽くされあまり穏やかではなかった。
思わず近くにあった壁を全力で殴りそうになるが
その前にすっと何かが白い手で差し出される。
顔を上げると一体いつからいたのか
ブラックライダーが頭にフレスベルグを乗せ
握力トレーニング用のゴムボールを持って立っていた。
ミカエルは差し出されたそれを無言で受け取り、ぐぎゅう〜と握りつぶす。
それを仲魔達はそれぞれ黙って見ていた。
そう、いつからいたのか不思議な事にそこには仲魔がほぼ全員そろっていて
誰1人として何も言わず、ただそこにたたずんでいた。
そしてしばらくして、まず珍しく静かなフレスベルグを頭にのせたまま
ブラックライダーが足音も立てずにすうとその場を離れ
その後にサマエルとなるべく静かに歩こうと努力しているトールが続く。
マザーハーロットが楽しそうな顔をしてピシャーチャを持ったまま地面へと消え
それを見届けてからフトミミとケルベロスも階段をおりていく。
ミカエルは最後にそこを離れようとしたが
同じように最後まで残っていたマカミがくるんと腕に絡んできた。
こういった時には性格はまったく違っても
同じ主を持つ仲魔としては心の内は分かってしまうものらしい。
「・・マ、ソウショゲルナ。マズおれ達ガシテヤレンノハあいつト同ジダ」
自分たちは彼らのように泣いたりする事もその意味も知る事もできない。
しかし今自分たちがしてやれる事は
純矢が言った事と同じくまずはそばにいてやることだ。
まだお互い色々と戸惑うことも多いだろうが
まずはそっから始めてやろうぜと平たいシッポがぺしゃと背中を叩く。
ミカエルは何も言わずそれを振り解くこともせず、ただ黙って階段を下りた。
下からはブラックライダーが入れているコーヒーのいい香りが漂ってくる。
おそらくこれからあの新参魔人について
仲魔うちで無駄な雑談でも始まるのだろう。
しかし無駄とは言えど、その種族も体質も性格も違う様々な連中は
この偶然で転がり込んできた魔人や主人を不幸にさせるつもりなど
爪の先ほども思っていなかった。
一筋どころじゃなかった話。
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